目的と手段
- 僕は「あなたは初心を忘れない人ですね」とほめてもらえることがあります。自分ではこれはそれほど難しいことだとは思っていません。今回はその辺のことを書きます。
- 僕は、キューリー夫妻がラジウムとその応用方法を発見して、これで特許を取ればお金持ちになれると思って迷ったときに、「でも私たちはお金持ちになるためにこの研究をはじめたわけじゃない」と言って、あえて特許をとらずにいたという話が好きです。
- 僕が初心を忘れないというのは、結局のところ、「自分は何のためにこれをやっているのか」を強く意識しているためだと思っています。
- 僕は僕の価値観における幸せを追求したいですが、その中には自分がお金持ちになることは含まれていません。僕にとってお金は幸せになるための手段の一つではありますが、唯一の手段というわけではありません。たとえば僕は明日の食料があればいいのであって、食料を買ってもいいし、誰かにもらってもいいし、自分で育ててもいいのです。
- 僕はOSASKを自分が使うために作るというのが目的で、その手段として開発の発展のためにOSASKコミュニティを大きくしたいということはありますが、しかしだからといって人集めのために自分のほしくない機能を作ったりはしないのです。
- 周囲を見ると、嫌いな仕事で苦労してお金を稼いでいる人がいますが、僕はそんなに苦労するくらいなら、もっと安い食べ物を選んで食べたり、地価の安いところに引っ越したり、そういう選択肢もあると思うんです。なんといっても、幸せになるための費用を得るために働いているのであって、お金が多ければ多いほどいいわけじゃないと思います(もちろんお金が好きな人ならそれでいいんですが)。多少の生活の工夫で仕事を楽にしたほうが、むしろ楽しいかもしれません。
- もちろんよくよく比較した結果として、やっぱり現状が一番楽しいと分かることもありますが、生活のためにお金を稼いでいたはずが、いつのまにかお金を稼ぐために生活していたりしている場合もあると思います。自分に必要な金額が分かって、それを稼げばそれでいいのに、それ以上を苦労して稼いでしまえば、それは本末転倒と言うものです。
- 僕のOSASKも似たところがあります。パソコンを速くしたいと考えたときに、その有力な一つの方法としてCPUを高速なものに変えればいいというのがありますが、しかしソフトウェアを改良したってそれなりに(というか劇的に?)速くなるのです。だからまずはソフトウェアで十分改良して必要なCPUの速度を見極めて、それからそのハードウェアを追求すればいいと思うんです。
- ほかに目的と手段が混乱しがちな典型は、受験勉強でしょうか。勉強が好きで好きでたまらなくて、受験勉強そのものが楽しいというの場合は全く問題はありません。でも、勉強が嫌いなくせに、それをがまんして勉強して進学するというのは、よくよく考える価値があると思います。たとえば、将来○○になりたいから勉強する、○○をもっとよく知りたいから勉強する、というのはとてもいいと思うんです。でも、漠然とした不安だけで勉強するというのは、本当にそんなに必要なのかどうか分からないままむやみに苦労して働きつづけるのと同じ気がします。何のための勉強なのか、それを意識してほしいです。
- 結局、自分がやっていることは、目的なのか手段なのか、それを意識するのが僕のやり方です。目的はそうひょいひょいとは変わりませんが、手段はいくらでも変わります。いつしか手段を固定的に考えてしまって、まるでそれが目的のように感じてしまうと、それはとても不幸なことだと思います。
- 僕はこのサイトを運営するに当たって「Wikiは道具です」という言い回しを使います。これも目的と手段に関する話なので、ここに書きます。
- Wikiでは普通のhtmlのホームページなどとは異なり、そのホームページの持ち主以外でもページを作ったり削除したり編集したりする機能があります。これはとても便利で、僕はこの機能を使って感想を書き込んでもらっています。
- もちろん普通の掲示板でも感想の書き込みはできますが、掲示板ですと投稿した後の誤字などの修正は管理者に頼まなければいけませんし、何か大きなテーマがあって、その下に小さな掲示板、という形式が作りにくいということもあります。
- しかし現状では、やろうと思えば、たとえば僕の書いた文章まで勝手にいじることもできますし、誰かの気に入らないコメントを勝手に削除したりもできます。もちろんそんなことはやってほしくありません。僕はその辺の意味合いを「道具」という言葉で表しています。
- たとえば包丁は道具です。おいしいお料理を作るために作られていますが、これを使って人を傷つけることもできてしまいます。つまり、道具を使ってできることの全てが、やってもよいということではありません。
- 包丁には種類があって、野菜を切るのが得意な包丁、魚をさばくのが得意な包丁、パンを切るのが得意な包丁など、いろいろあります。一方で、どれが得意というわけではないけれど、まあたいていのものはそれなりに切れる平凡な包丁もあります。
- 僕のこのWikiの運用方法は、平凡な包丁で野菜ばかり切っているのに似ています。Wikiは基本的になんでもOKな包丁なのです。ここの運用方法では、万能型包丁を選んでおきながら、肉や魚は切らないわけです。
- そんな僕に向かって、道具は手段に応じて選択されるべきだという主張を掲げて、野菜包丁に切り替えろという意見を言う人がいます。つまり、僕以外の誰も書き換えられないような仕組みを入れなさいというわけです。
- それは果たして賢明なことでしょうか。とりあえず現状で問題がないのに、手間ひまかけて対策をとるべきなのでしょうか。なるほど、野菜包丁にすれば、野菜はもっと切りやすくなるかもしれません。しかしそれはもういざ必要になっても、肉や魚は切れないことになります。
- Wikiでどこに誰が書き込めて誰が書き込めないかを制御するとしたら、ログインだのクッキーだのという条件が増えたり、それを管理するためにサーバの負荷が上がったりするでしょう。みんながちょっと心がけてくれるだけで問題なく運用できるんです。それでいいじゃないですか。
- きっと今の技術なら、電源を入れないと刃が出てこなくて、しかも野菜や肉や魚以外の最小物を認識するととたんに刃が引っ込むような、そんな安全装置付き包丁が作れるだろうと思いますが、きっとそれは重いですし、高いですし、電池が切れたら使えません。使う人が悪人ばかりだったり、人を切ろうとしているのか食材を切ろうとしているのかよく間違えるということになれば、今の普通の包丁は廃止してこの安全装置付きの包丁にするべきですが、人類はそこまでバカなのでしょうか。
- また一方で、Wikiを使うなら他人が書いた部分もいじらせろ、ということをいう人もいます。そうあるべきだという人もいます。
- 僕の作りたいサイトがあって、それはとりあえずWikiに必要な機能が揃っていると分かって、それでWikiを使い始めたのに、Wikiでは他のこともできるからそれも受け入れろ、というのはいかがなものでしょうか。「僕の目的をよりよく実現するために」この機能も使っていいことにしたらどうだろうか、というのではなく、手段として選択した道具の性質を根拠にするところが、情けないと思います。思考が手段に振り回されて、目的と手段の混同があると思います。
- ここからはWikiを離れた一般論です。
- できることのすべてがやっていいことではない、というのはごくあたりまえのことです。たとえばダビングができるからなんでもダビングをしていいわけではないのです。ダビングしていいものといけないものがあり、それを誤用する人がいるからダビングはできなくしようなどと発想と、してはいけませんよという注意書きを書こうという発想の違いです。
- 基本的に人間の理解力は信用できないから、やってはいけないことを不可能にするような仕組みが必要だ、という発想は、基本的にできることもできないような、そして仮にできたとしても効率の悪い、そういう世界を招来します。
- だから、できることならなんでもしていいと決めてかかるのは良くありません。確認や配慮が必要です。なるほど、電気を浪費することも燃費の悪い車を走らせることもできますし、しかもそれは現時点ではなんの法にも触れない合法的な行為ですが、それをやってしまえば、破滅が待っているでしょう。これに対して、人間は結局ろくな自制心を持たないバカなのだという発想で行くなら、人間1人あたり一日10kWhまでしか使えない、とかいう法律を作ることになるんでしょう。そしてこれを超えたら強制的に停電とかになり、その制御装置のためのコストを負担させられたり、いざという緊急時に電気が使えなくて非常に困ったりするのでしょう。
- これを書いているうちにある中学校の校則を思い出しました。分別のない生徒の間で極端に過激なヘアスタイルがはやってしまい、その結果として、髪の毛の色は黒にしろだの、パーマはかけるなだの、髪の毛の長さはどれくらいにしろだのと厳しい校則を作られてしまったのです。それまでは、中学生らしい健全な頭髪にすること、みたいな感じで、長さに関する規定はなかったし、色も自然な程度の茶色なら問題なかったし、天然パーマ程度なら特に何も言われなかったのに、ねえ。
こめんと欄