「勉強」は時に有害である
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- 基本的にはboyaki_a/00083の続きである。要するに、世間の人の多くが自分の知らないことを調べて勉強するのを何の不安も疑問もなく「いいこと」だと思っていることが嘆かわしいのだ。
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- 世間の人は一般的にどんな知識でも「知らない」よりは「知っている」ほうがいいと信じている。実は僕も学生時代くらいまでは本気でそう思っていた。でもこれは間違っていると今は思う。知っていることは先入観につながる。余計な先入観は新しいことに挑戦するためには非常に有害だ。もちろんどんなに知識があっても先入観を持たずに取り組めるという天才ならこの弊害はないので、僕の論は当てはまらない。でもそんな人はものすごく少ないだろうし、当然僕も先入観に振り回される。
- 先入観に振り回されるなら、先入観に振り回されないように訓練すればいいという考え方はある。確かに訓練すればこの能力は獲得できるのかもしれない。でも先入観にとらわれなくなるように訓練することで人生を消費し、さらに差し迫って必要ではないような知識をムダに蓄えることに時間を使っていたら、さて先入観にとらわれずに新しいことに挑戦する時間が一体どれほど残っているだろう。やっぱり平凡な人や僕のように能力の劣る者のとるべき戦略ではない気がする。
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- ある問題があって、その答えを知りたいとしよう。今ではインターネットで検索すればたいてい答えはすぐに見つかる。だからみんな検索する。それでその通りにやる。当然うまくいく。みんなそのやりかたを覚えるだろうか。いや覚えない。だって調べればすぐに出てくるんだから、なぜわざわざ覚える必要があるのか。覚えていないでそのつど調べれば、むしろ最新の新しい方法をいち早く発見できるかもしれない。
- しかしこの方法はあることを犠牲にしている。それは覚えないということだ。昔は知識をたくさん持つ人は賢い人だった、なぜなら記憶する過程でたくさんの知識が整理されて、対処法の一般法則みたいなものを把握していたし、差異がある場合はそれが何に起因するかを考えることができたから。しかしインターネットに散らばっただけの知識はそうではない。人類の知識の全体を見る視点がない。個々の問題の個々の対処法が散らばっているだけである。数学で言えば特殊解ばかりで一般解がない(そりゃ特定の問題を解決するだけなら抽象的な一般解よりも特殊解のほうが役に立てやすい)。
- また調べるのが簡単というのはもう一つ弊害がある。それは考えなくなるということだ。これは先の知識をたくさん持つ人にも当てはまる問題だ。考えなくなれば、まだ誰も解決法を示してくれていない問題にぶつかった場合、これを自分で解決することが出来ない。類似のケースから方法を考えるとか、物事の本質から解決法を考えるとか、そういうことが出来ない。結局調べるだけの人、覚えているだけの人は、過去の誰かがうまくやったことを猿真似しているだけだ。いやむしろその問題を解いた人ほどそのやり方の真意を理解してはいないだろうから、劣化コピーとさえいえるかもしれない。
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- 僕にとって「勉強」は何のためにするのかといえば、「研究」の土台を作るためである。研究とは誰かに教えてもらうのではなく、自分でやり方を考えることだ。それはたいてい先人のやり方にすら及ばない結果に終わる。でもそれでもかまわない。僕はそれでも研究をやめるつもりはない。
- 分からないことにぶつかったら僕はまず考える。そして自分なりのやり方を考え出す。もちろん全く思いつけない場合も時にはあるから、そのときはギブアップする。自分のやり方で満足できる場合、僕は調べない。調べて余計な知識を付けない。これは世間の大衆の考え方に押し流されないための予防策であるし、時間の節約でもある。
- 自分なりの答えを出したけどどうもしっくりこない場合、もしくはギブアップしてしまった場合などは、僕はいわゆる「正解」を探しに行く。そこには僕の思いもよらない答えがある。それがもし自分にはおそらく一生かけても思いつけないと思えるほどのすばらしい内容だった場合、僕は感動する。感激する。そしてそういうものは忘れたくても忘れられない。また僕はその答え以上にその答えを導くのにどういう考え方だったのかということに興味がある。だから答えだけしか載っていない資料は僕にはほとんど魅力がない。試行錯誤の過程がとても知りたい(そういう思いから「OS自作入門」はあの形式になっている)。それが分かれば、僕も同じくらいのレベルの発想が自分だけでできる日が来るかもしれない。答えしか見つからない場合、もしかしてこの発見者は運良く思いついただけなんじゃないかと疑うことすらある。そういう場合、その発見者への畏敬の念はかなり薄れる。
- 調べた結果が自分の研究結果よりもお粗末だということも最近は珍しくはない。そんなときはニンマリする(笑)。かつてはこうじゃなかった。そんなとき僕も少しは進歩したなと思う。
- 僕にとっては学校での勉強も結局これだった。つまり僕にとって問題集の後ろにある回答は模範解答でもなんでもなく、ただの回答例でしかない。自分の解き方のほうがずっと簡潔で本質を突いていると思うことが年に数回はあった。でも周囲の人たちは模範解答を一生懸命に覚えていた。確かにそのやり方ならその問題は解けるようになるだろう。でも未知の問題を解けるようになるわけじゃない。そして誰かがもう解けるようになってしまった問題を自分も解けるようになることに一体どれほどの意味があるだろう。そんなのは他の人でも出来ることが出来るだけの人間で、その人にしか出来ない何かを持っているかけがえのない人ではない。