僕の競争主義
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- 言うまでもないことだけど、ここに書いていることは僕の主観であって、絶対に正しいとかそういうものではない。賛成できない人は賛成しなくていいし、むしろ誰にも賛成してもらえなくてもいい。
(1)
- 自分さえよければそれでいいという考えの人がいる。自分が少しでもいい思いができるのならどれだけ他人に迷惑をかけてもいいし、告発されないのなら何人を殺してもいい。僕はそういう考え方が嫌いだ。そういう人は排除しようとする。だって僕はそういう人と共存できないし、したくないから。
- 僕は競争を全面的に肯定する。だから自分の利益の追求の結果、他人に不利益があるのはかまわない。それが競争の敗者であるならば。しかし相手の不幸は最低限度にするべきである。
- 僕が徒競走で1番になったせいで、他のランナーは1番にはなれない。トロフィーももらえない。もらえるはずだと思っていた人にとっては耐え難い不利益かもしれない。しかし僕はこれは正当な競争の結果だと思うので、心は痛まない。・・・しかし、僕は自分が一番になるために有力選手にけがをさせたり、事前に心労を負わせたりするようなことはしない。それは正当な競争ではないと思うからだ。そうしないと勝てないのなら、僕は負ける道を選ぶ。
(2)
- 自分さえよければ、他はどうでもいいなんてとんでもない。そもそも僕たちは何のために競争しているのか。それは能力ある人を選び、その人に一定のメリットを与え、人類がその方向に進化するのを助けるためだ。
- 僕は思いやりがあるわけではない。いや、もしかしたらあるのかもしれないけど、でもそれはこの問題の動機とは独立している。僕は思いやりがあるから、つまりかわいそうだから、自己中心的な考え方を否定しているのではない。慈悲でそう思うわけではないのだ。自己中心的な考え方は間違っている、当初の目的にあっていない、僕はそういいたいのだ。
- 徒競走は、足の早い人が誰かを決めるための競争だ。もし競争が公正に行われ続けるのなら、おそらく人類は少しずつその方向に進化するだろう。しかしたとえば薬物などを使うことを許せば、それは薬物の開発競争にしかならない。それでいいのか?もし薬物の開発競争がしたいのなら、最初からそういうルールでやればいいではないか。僕はそう思う。
- ちなみに慈悲や哀れみの気持ちも、当初の目的には合わないことがある。Aくんはとてもよくがんばったから、勝たせてあげたい。ということでBくんがわざと負けることは慈悲の心にはかなっているかもしれない。しかしそんなことをしてはいけない。だってそんなことをしたら本当は勝つはずの足の早い人が負けてしまい、人類の進化は後退する。
- もし不幸な人を助けたいというのなら、不幸自慢コンテストをするべきだ。ただしこれは危険なことでもある。なぜなら不幸競争をするということは、不幸になる方向へ徐々に進化が進むということだから。
(3)
- 不幸が何かによって報われるのは、保険の場合だけであるべきだと僕は思う。そして保険は任意加入であるべきだ。強制的に保険料を取り、それによって保険料を引き下げて、不幸な誰かを助けるというのは、結局は人類を不幸な方向に導く。
- 各自が自分のリスクを把握し、そのリスクに応じて必要な保険を選び、その保障額に応じた保険料を支払うべきだ。つまり保険は個人の人生のうちで確率的にしか起きない出来事に対する変動をならすためのものであって、他人の不幸を減らすために誰かの幸福を犠牲にするものではない。
- だから健康保険も本来は健康診断の上で、同じような病気のリスクを持つ人同士でグループ化して、そのグループ内で収支がゼロになるようにするべきだ。よい生活習慣をもつ人がそうでない人を助けるべきではない。そういうことをすると、保険がないときよりも不摂生のリスクが減るので(健康でいることのメリットも減るので)、何もしないときよりも国民全体が不健康になっていく方向に導かれることになる。
- 生活保護も累進課税制度も同じだ。経済力が不十分でも助けてもらえる制度を充実させればさせるほど、何もしないときと比べて国民の経済力は下がる。
- かわいそうだという気持ちは僕も分かる。でもその気持ちもほどほどにしないと結局はみんなが徐々に不幸になる。僕はそう思っている。
こめんと欄