「他人からの評価」中毒症
(1) 大学の心理学の授業で教わったこと
- まだ小学生になるかならないかくらいの幼児(児童)にはたまに黙々とクレヨンで絵を描けている子供がいる。描けといわれて描いているのではなく、時間があるとのびのびと描いている。そしてたまにそれを母や父などの身近な人に見せる。その人はほめる「まあー、うまくかけたわねえー」。とてもほほえましい。
- このような幼児を集めて、2つのグループに分けたとする。AグループとBグループ。Aグループには、ただほめるだけではなく、そのときにその幼児の大好きなおかしを与える。ご褒美というわけだ。Bグループは今までどおり、言葉と笑顔と頭をなでるとかまあその程度止まり。
- そうするとAグループの幼児は変わる。どう変わるかというと、今までよりももっと強い熱意を持って絵を描くのである。いっぽう、Bグループは変わらない。まあ変えていないんだから変わらないのは当たり前である。
- さてここで、Aグループにさらに変化を与える。おかしをあげるのをやめて、以前どおり言葉と笑顔でほめるだけにするのである。そうするとどうなるか。Aグループの中に、絵を描くのをやめてしまう幼児が現れる。ただ以前の状態に戻っただけなのに、そして以前は誰に何も言われなくても楽しそうに描いていたのに、もう自発的には描こうとしないのだ。
- このような実験が本当にあったのか、それとも思考実験だったのかは分からない。またどの幼児に対してもこのような起きるというわけではないだろう。しかし傾向としてこの話は「確かにそういうことはありそうだな」と感じさせる。少なくとも僕はそう感じる。
(2) 他人からの評価を気にする人たち
- この話から感じられることは、人は一度他人から強いプラスの評価を与えられてしまうと、本来持っていた自発的な意欲が減少し、他人の評価の得られないことはやめてしまう傾向があるということだろうと思う。あなたは似たような経験があるだろうか。もしくは周囲の人が似たような変化をしたのを見たことはないだろうか。
- 最初は自発的かつ純粋な気持ちで自らの理想のOSを作っていたのに、ニーズがないからと方針を転換するというケースを見たことがある(このケースについて僕は詳しく語ることができないのでこれ以上具体的なことは言わない)。僕はその人に理想を貫いてほしいと思った。他人のニーズのためだけで開発していいのか。そんなことでまともなOSが作れるのか。ニーズに合わせていたら、ただ現状の問題を場当たり的に解決するだけのOSにしかならないのではないか。
- もちろん現状の問題の解決だって大切だから、そのことを否定するつもりはまったくない。しかし当初はより壮大な計画を持っていながら、ただ「ニーズがない」という理由だけで方針を転換してしまうのが残念なのだ。そもそも最初からニーズなんてなかったんじゃないのか。そのOSを使ってくれそうな人が現れて、その人があの機能はほしい、この機能はいらないというからそれに合わせ、気づいたら当初の目標のOSとはまったく別になっている。汎用性も損なわれ、あきらかにちっぽけで特定の問題の解決しかできないOSである。
- そして開発者当人がそんなことになってしまったことをくやんでいない。・・・これでいいのだろうか。
- 僕の経験では、誰かに使わせることを他よりも優先し始めたプロジェクトの半分以上はガラクタに成り下がっている(みんなで使うためのプロジェクトなんて最初からガラクタなことが多い)。ユーザなんか他にいなくていい、自分のために作ったもの、もしくは特定の知人のためだけに作ったものは、結果的によくなりやすい。それを「みんなにも使ってほしいから」と、本人には不要な機能を優先してつけたり、自分に必要な機能の優先順位を下げたりし始めると、退化が始まる。
- OS開発でよくあるのは、「新規に作っても互換性がないと普及しない。だから○○互換で作る」みたいな話である。確かに互換性はないよりあったほうがいい、それは間違いない。でももし自分ひとりで使っていくつもりならどうだろう。互換性がなくなって我慢できるのではないか。それにほかのOSを併用しちゃいけないということもないはずだ。だから既存のOSと自分のOSを併用すればいいじゃないか。既存のOSに不満を感じてなんらかの理想を打ち立てたのに、他の人に使ってもらえる見込みがないというだけの理由でその理想をあきらめていいのか。自分の信じる理想OS下で気持ちよく効率的なプログラミングをしたかったのではなかったのか。
- ちなみにOSASKの場合、僕は今もっているTOWNS用のソフトウェアなどを自作OS上でも使いたかったので、エミュレータを書くことにした。つまりこれは他人からの要求ではなく自分の内なる要求であった。
(3) 生計を立てていくという問題とのバランス
- しかしまあ「生計を立てていく」ためには、誰かに買ってもらわなくてはいけないから、ユーザの意向を意識しなければいけないというのはやむをえない面はある。しかしそれでも、自分の理想を他人の評価にかまわずに作り上げ、それを他人がほしがるように見せびらかす、ことを夢見るべきではないのか。それで他人がほしがってくれなければ、価値観の相違だとか、時代の先を行き過ぎてしまったみたいだなと、割り切ることはできないのか。他人なんかどうせ近眼で問題の本質が見えていないのだ。そんな人に評価されないのが何だというのだ。
- 生計を立てるために作るものは、最初からそれで行けばいい。それは仕方ないことだから問題はない。僕が気になるのは、猫も杓子も「ニーズ」「ニーズ」ということであって、現代の他人に使ってもらえなさそうだというだけで、自分の理想から出発した開発をためらいもなく捻じ曲げることなのである。せめて苦悩の上の決断であってほしい。・・・なんだかあまりにあっさりと他人向けに方針を変えられると、そもそもこの人はその程度の情熱で開発していたのかと興ざめしてしまう。強い信念を感じたから応援してきたのに・・・。
(4) 逆のケース
こめんと欄