感謝の重要性
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- かつて僕はmixiの日記で、善意は強要されるべきではない、というようなことを書いた。趣旨は、バスや電車で席を譲らない若者がたまにいるけど、それを「けしからん」と他人が言うのはおかしいんじゃないか、という内容である。なるほど、譲ったほうがいいのは間違いない。僕だってそこまでは賛成だ。僕だって譲りたい。でも譲らなかったことに対して、他人が文句を言うなんておかしいと思う。もちろん譲ってもらいたかった老人が「なんで譲ってくれないのさ」なんていうのもおかしいと思う。
- ちなみにこの件に関して僕とは同じ考えじゃない人も世の中にはいる(老人のおかげで今の日本があるんだ、敬意を払うのは当然、みたいな人もいる・・・確かにそれはそれで一理あるのでその点に反論する気はない)。
(1)
- ここで話題にしたいのは、善意を強要してもいいかどうかという話ではない。善意を受けたときに、どれだけ感謝しているだろうか、ということである。たとえば席を譲ってもらったとしよう。そのときに形だけではなく、本当に心からありがとうと言っているだろうか。言っている人を見たことが何度もあるので、そういうきちんとした人はたくさんいると思う。でも、(0)で「けしからん」とか「若者は老人に席を譲って当たり前」とか言う人は、黙って当然のように座ったり、もしくはせいぜい形式だけのお礼しか言っていないのではないだろうか。
- 誰だってもちろん感謝の言葉がほしくて親切にしているわけじゃないと思うが、それでも丁寧に感謝してもらえたら、「ああ自分はこの老人を助けることができた、よかったなあ」くらいは思うだろう。いい気持ちになる。だからまた同じ状況になったら席を譲ってあげたいと思うかもしれない。・・・しかし逆にそういう感謝の表明がなければ、「席を譲るなんてなんだか張り合いがなくてばかばかしい」と感じてしまうかもしれない。
- それに僕はこんなこともきいたことがある。・・・ある白髪混ざりの男性が雑談で「先日さー、若者に席をどうぞっていわれてさー、あー、自分はそこまでふけて見えているのかーってショックだったよ」と言っていたのである。老人扱いするな、と言いたいのだろう。その気持ちはわかるが、それをきいた僕の気持ちは複雑だ。うーん、簡単に席を譲ってはかえって失礼になるのかもしれない・・・。
- そんなわけで、僕が言いたいのは、もし今の若者が昔よりも席を譲らないのだとしたら、それはもちろん若者の側のマナーの問題もあるかもしれないけど、でも感謝していない老人が増えてきたことも理由じゃなんじゃないかと。もしかしたらそんな要素は主たる原因ではないかもしれないけど、でも原因のひとつではあると思う。
(2)
- 利己的に考えてみれば、基本的に席を譲っても得なことはない。お金がもらえるわけではないし、自分が困ったときに助けてもらえるという保障が与えられるわけでもない。それを「当たり前」とか言い切ってしまうのってあまりに傲慢じゃないのか?・・・席を譲るという小さなことではわかりにくいかもしれない。仮にどこかの国で大地震があって、救援に駆けつけたら「地震が来たんだから俺たちを助けるのは当たり前だよな、来るのが遅いじゃないか」なんて言われて当然なのだろうか(たとえば条約を結んで相互保障していたのなら言われて当然だけど)。
- 僕は違うと思う。むしろ何もしてもらえないことが当たり前で、相手は損をするだけなのに、それにもかかわらず助けてくれているんだ。それで何も返すことができないなんて本当にもどかしい、だからせめてお礼くらいは言う、という姿であるべきだ。お礼を言っても何か損をするわけじゃない。なのになぜお礼を言うのをためらうのか。それは結局、自分の首を絞めているのではないのか。
(3)
- ここまで考えて、僕はいかに自分が感謝していないかを恥じた。僕は未踏ユースの採択期間と自作入門の印税が入った年を除いては、ろくに所得税を払ってこなかった。いや、所得税を払った年にしたって、納税額が300万円とかになったわけではないのだから、結局僕は毎年「お金持ちの人の世話になっている」のだ(→boyaki_a/00034参照)。僕は今までそれを感謝したことがあっただろうか。
- 僕は子供のときから家が貧しかったこともあって、ほしいものがあっても買ってもらえないのが当たり前だった。でもお金持ちの友達は買ってもらえる。その友達のほうがいい子だったわけでもないのに、単にお金持ちだからという理由だけで買ってもらえる。だから僕は「お金持ちってなんだかずるい」と思うようになったのだろう。・・・でも今はわかる。お金持ちの子がずるいと思うのはただのねたみだ。正当な根拠ではない。むしろ自分が何もしていないくせに、親に買ってもらおうと思うほうがよほど問題である。買ってもらって当然なんて思うのもおかしい。
- お金持ちはずるくない。むしろ本来は僕の支払うべき行政コストを、今まで負担してくれていたのだ。もしかしたら気は進まなかったかもしれない。法律がそうなっているからいやいや払っただけかもしれない。でも動機はどうあれ、僕は恩恵を受けたのだから感謝したい。
- 他にも感謝すべきなのに当然と思って感謝し忘れていることがたくさんありそうな気がする。あー、なんてバカだったんだ僕は。
(4)
- 本当にそこまで卑屈にならなければいけないのか。・・・いけないと思う。まず道徳的に、親切にされたら感謝をするのが当然だ。これは(2)にあたる。そして利己的に考えても、将来自分や自分と同じ立場の人がまた親切にされるために、やはり感謝するべきだ。これは(1)にあたる。
- というか感謝をしたくないと思ってしまうのはなんなのだ。感謝することでいかなる損があるのか。感謝したくないのなら親切にされないように自分で稼げばいい。タクシーに乗れば席を譲ってもらわなくても座れるのだ。・・・僕は思う、親切にしてもらっているのに感謝しないのは、数学のゲーム理論の囚人のジレンマで言うところの「裏切り」だ。回数のわからない繰り返し型囚人のジレンマでは、裏切る相手には次回は裏切りで返し、協調する相手には協調するのが最強の戦略だから、裏切る相手には以後親切にしないのが数学的に正しいのだと思う。だから若者が席を譲らない理由が、「前回譲ったときに感謝されなかったし、自分が疲れているときに席を譲られたことがないから」であれば、その若者は合理的な選択をしているといえる。
- 自分は老人だ、いたわれ、みたいな主張がもしあるとすれば、それは(インターネット社会ではなく)現実世界での「クレクレ君」でしかない。ほしいものはだだをこねてでももらうけど、自分からは何も返す気がない。そんな存在は何の役にも立たないから、そんな人を優遇する必要はない。もし優遇すればそういう人が増えるだけだ。そうやって善人が食い物にされるような世の中がいい世の中なのか。逆に冷遇すれば自分の間違いに気づいて改心するかもしれない。
- (註)この項は一般の人に向けて書いているように見えて、実は「なんか感謝することにためらいを感じる自分の一部」を攻撃するために書いたものである。
(5)
- 親切にした人がお礼を言われたときに「お礼はいりません」とか「いえ、当然のことをしたままでです」って言うことがある。確かに本当にその人はお礼をいわれたいと思って親切にしたわけじゃないのだろう。その人にとっては当然なのだろう。でも、そうやってお礼を言う機会を奪ってしまうと、お礼を言わない癖がついてしまい、結局はその人の首を絞めることになりはしないだろうか。だから素直にお礼を言われることも大事なのかもしれない。
- うーん、この問題は難しい。僕はお礼を断ることがたまにある気がする。それはよくなかったということなのか・・・。というか、僕は僕が親切にしたときに感謝されないことは気にならないけど、誰かが親切にしているのにその人に感謝しない人をみると、なんか無性に腹が立つ。むむむ・・・。
- 敬語も同じかなあ。Aさんからみて僕もBさんも目上のとき、Aさんが僕に敬語を使わないのはあまり気ならない。でもAさんがBさんにも敬語を使わないのはすごく気になる。・・・IRCやメールなどで僕は自分に対して敬語を使っていない(使うべきと思われるのに)のをとがめることはめったにないけど、それはいいことなんだろうか。彼らが敬語を使うべき状況はそもそもあまり多くないわけで、そのわずかな機会のひとつなのに、僕はその教育機会をつぶしてしまっているのだろうか。
- うーん、どうするべきなのかわからない・・・。
こめんと欄