ボクはこんなにキミのことが好きなのに・・・
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- 世間の小説やマンガやドラマや歌などで「ボクはこんなにキミのことが好きなのに、どうしてキミはボクを好きになってくれないのさ!」みたいな状況がある気がする。これが詩的な表現なうちは「若いなあ」くらいで許せるが、本気でそう思って嘆いたり憤慨したり相手を逆恨みするようになっている場合もある。僕にはこれが理解できないというか、気持ち悪いというか、恐ろしい。
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- これらの状況でなんとなく感じるのは、「ボクが好意を持っているんだから、それに感謝してお返ししてよ」みたいな考えが背後にあることだ。そもそも好意をもたれることはありがたくもなんともないことだ。それが分かっているのか。もちろん、好意を持っているから贈り物をするとか、親切にするとか、そういうことはあるだろう。それは確かにありがたい。でも好意を持っているだけで、贈り物も親切にもしないなら、そんなのは「ボク」の気持ちの問題でしかないわけで、相手がありがたがったり感謝したり、ましてお返ししたりしなきゃいけない道理は全くないのだ。
- 「ボク」はよほど人から好意をもたれたことがなくて、もはや誰かから好意を持っているといわれるだけで心からうれしいのかもしれない。それはそれでかまわないのだが、かといって相手もそうであると勝手に決め付けてはいないだろうか。「ボク」よ、普通はそうじゃないのだ。だから、好きだといっても感謝されないからといって腹を立てるなんて思い違いもはなはだしい。
- そもそも、贈り物や親切も相手にとって不要なものであれば意味はない。それどころか邪魔なものであればかえって逆効果である。「好きだ」ということさえも「ボク」にとっては贈り物のつもりかもしれないが、相手にとっては全然違うのだ。だから感謝されないのは当たり前なのだ。
- だから何をするにせよ、まずは相手が何をしてほしいと思っているのか、それを調べたり考えたりするところから始めないといけない。それをしないで何か「してやった」気になるのは危険なことである。
- 事前に何がほしいかを聞いてそれをあげたとしても、あげたときにはもうそれがほしくなくなっていることだってありうる。だから基本的に自分の善意や好意が相手に感謝されているはずだと決め付けることはできない。どんなに善意ではじめたことであっても、相手がどう評価するのかは完全に相手の自由なのであって、「ボク」の思い通りではなかったとしても、非は相手にはない。その自由にけちをつけるやつは一体自分を何様だと思っているのか。
- 自分の好意が結果的に相手の迷惑になることも珍しいことではなく、これは主に配慮が足りないために起こることである。それにもかかわらず、それで文句を言われたときに、「悪気はなかったんだから、許してくれ」なんていう人もいる。悪気さえなければ、好意が理由であるといいさえすれば、許されるのが当然だと思っているのだろうか。僕に言わせれば、むしろ悪意が理由でやることなんて論外なのだから、わざわざそんなところから相手に説明しなければいけないほど、自分は相手に信用されていないと思っているのだろうか。それって失礼の上塗りじゃないのか?それに好意かどうかは関係ないのだ。理由はなんであれ相手を喜ばすためにしたのに逆になってしまったのだから、失敗なのだ。失敗は反省するべきだ。相手に被害を与えたのなら賠償して謝罪するべきだ。それで許すかどうかは相手の自由なのであって、聞かれてもいないのに悪意はなかったなどといったり、許して当然みたいな態度は考え違いもはなはだしいと思う。
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- 相手を理解しようともしないで好意を押し付けることが当たり前になってきたのだろうか。ヒット曲とかの歌詞なんて、「ワタシはアナタがスキなのよー」的なものがかなりある気がする。僕はこういう歌には全然共感できない。あっそう、それは良かったね、じゃあ好きにすれば、だから何?としか思えない。
- 愛することが尊いという風潮も理解しがたい。この「愛する」ってのはなんだ?相手が迷惑がっているのに愛情の押し売りをすることなのか?それとも相思相愛、両思いなのか?愛情の押し売りだったら迷惑千万で、そんなものはちっとも尊くはない。相思相愛ならそれは愛し合う者同士で好きにすればいいのであって、周囲が尊いだの、みんな愛し合いましょうだのと奨励する必要がどこにあるのだろう。
- もちろん、過剰な報復をするなとか、無駄な争いは良くない、みたいな主張は僕にだって良く分かる。でもそういうことを避けることと相思相愛になりましょうには、まだ大きな隔たりがあることが分かっていないのだろうか。嫌いじゃなければ好きなのか?どちらかにしなければいけないのか?判断を保留してはいけないのか?
- 僕は全部間違っているような気がするのだ。好きか嫌いか、愛するか憎むか、それは自分が自分の責任で判断することだ。いいものはいいし、悪いものは悪い。いい人はいいし、悪い人は悪い。それは周囲の人がいいというからいいわけではないし、悪いというから悪いわけでもない。飽くまでもどこまでも、個人の主観の問題である。世界はなぜか人に対していい判断をするほうに、つまり愛するほうに圧力を掛けようというキャンペーンを何十年もやっている気がするが、そんなのは正確な判断をゆがめているだけに過ぎない。大げさに言えば思想の自由の侵害なのかもしれない。
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- それに「どう思うのか」はそれほど重大な価値を持つことではない。結局はどう思っても行動に反映されなければ効果はないのだ。それなのに行動よりも思うことのほうが重要みたいな風潮はないか?「思っていればいつか通じる」みたいな表現がまかり通ってないか?詩的な表現・比ゆ的な表現のうちはいいのだが、なんか本気で言っている人がいそうな気がするのだ。・・・おいおい、いつから人類はテレパシーを使えるようになったんだ。たとえば、みんなで平和を願うだけでは平和にならないんだぞ。少なくとも平和を望んでいると言うべきときに言うくらいはしないと。やせたいと思ってもそれだけではやせはしない、実際に食べる量が減らなければ。
- こんな歌がたくさんあるのは、結局はこういう歌が好きで買ったり応援したりする人が世界中にいるからなんだよな。世界はどんどんくだらないものを貴んで、本当に価値のあることから目をそむけつつあるように思う。この先どうなるんだろうか。・・・まあいいか、みんなが滅亡へ向かいたければ勝手に向かえばいいんだ(僕の迷惑にならない限り)。僕は僕の道を行く。
こめんと欄