NHKのエコ特集で考えたこと
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- 自分が考えたことを忘れないようになんとなくメモ。しかしほとんど見てないので、番組の内容とは直接関係が無いことばかり。見ているときにふと思いついた程度でしかない。
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- 「人間は一人では生きていけない」と簡単に言い切る人は多い。これはよく考えてみると全く自明ではない。
- 「一人ぼっちで生きていても私は楽しくない」とか、「一人だけで生きていくのはきっととても大変だ」とかならまだ分かる。でもやっぱり、一人でも生きるだけなら十分に可能だと思う。不可能である客観的な根拠が見当たらない。寂しすぎて発狂するといいたいのか。でも多少の訓練を事前にしておけば発狂しない人もたくさんいそうな気がする。
- それなのに簡単に言い切ってしまうし、誰もそれに突っ込まない。これってなんか変だなと思った。そういう姿勢のままでは何事もよく考えずに感覚に流されて行動するだけで、仮に環境破壊問題は何とかなったとしても、次の社会問題を招くと思う。
(2)
- 僕は思い起こしてみれば、世の平均的な人よりも早くから環境問題を心配していた気がする。で、そういう僕を見て、バカにしたクラスメイトも当然いた(と思うんだけど、具体的に誰だったかは全然記憶に無いので、実は誰もバカにしてなかったのかもしれない)。何かそれなりの論拠を持って反論した人はいいと思うんだけど、そうじゃなくて根拠も言わずに、「何言ってんの?バカじゃね?」みたいな人はいると思う。まあOSASKの初期でも同じようなものかな。
- NHKの番組では、そういう心無い非難にもめげずに環境問題を訴え続けた人への感謝の言葉は一つも無かったように思う。でも僕はその人たちは絶対に賞賛されるべきだと思うのだ。だってその人たちがいなければ、もしかしたら今でも事態の深刻さに気が付かないで、状況をさらに悪くしていたかもしれないんだ。IPCCの人たちにはノーベル賞が贈られて本当に良かったけど、でもIPCC以外にも草の根で尽力した人はたくさんいるだろう。そういう人たちに感謝しましょうとなぜ言わないのか。それに心無いことをいった人たちは、詫びなくていいのか(どうせそういう人に限って、自分がとんでもないことをしたことすら分かってないんだろうけど)。
- いい事をした人を称えて、悪いことをした人にペナルティを与えないままでいるのなら、世の中はよくならない。別に賞金を出せとか、罰金を取れというつもりはない。とりあえず気持ちだけでもいいんだ、意思表示だけでもいいんだ、何も無いよりは。・・・子供がこういう話に触れる機会があれば、根拠も無いまま他人に失礼なことを言ってはいけないんだとか、そんなことを言われてもめげないで自分の信じることを続けることはとてもいい事なんだとよく分かるだろうに。・・・まあ、僕自身に関して言えば、環境問題では先頭集団に入ってないと思うから賞賛される側ではないと思うけど。
- むしろ「そんなのマジメにやるなんてバカじゃねーの」みたいな人のほうが要領が良くて、面倒が無くてよい生き方だとか思っている人が多いんじゃないか。これじゃあ、そのうち社会問題を自分から解決しようとする人はいなくなって、みんな「ふん、俺のせいじゃないよ」とかいって、絶滅するんじゃないだろうか(まあそうなったら、むしろ絶滅すべきとは思うけど)。
(3)
- 日本政府が京都議定書に参加するかどうかで、最大の排出国であるアメリカも参加しなければ「意味がない」とか言っていたような記憶がある。この「意味がない」っていうのはすごく問題のある発言じゃないかと今は思う。
- アメリカがどんなに排出するとしても、とにかく日本の排出量が減るのであれば、世界の排出量は減るのだ。もし大気の二酸化炭素濃度に比例して各種の災害が起こるのだとしたら、少しでも二酸化炭素濃度は減ったほうがいいじゃないか。もちろんアメリカが参加したほうがより効果的なのは分かるけど、別に日本だけでやったとしても、やらないよりは少しはいいはずだ。それを「意味がない」なんて表現するのは何事かと思う。日本の影響がどれくらいかは知らないけど、仮に1%しか影響が無いとしても、1000人死ぬのも1010人死ぬのも同じだといいたいのか。取り返しがつかなくなる日までのタイムリミットが、50年後でも50年+半年後でも同じだというのか。
- これは環境問題に限ったことじゃない。「みんなでやらないと効果が大きくはない」というべきところを「みんなでやらないと意味がない」なんていうのは、All or Nothing的な(=すべてか無か、的な)ひどい表現だと思う。そもそも全員で出来ることなんてありえるのか。9割がやるかもしれないし、もしかしたら99%がやるかもしれないけど、それでも100%なんてまずありえない。でももちろん9割や99%でも十分に効果がある。それなのに、「みんなでやらないと意味がない」なんて平気で言う。本当の「みんなでやらないと意味がない」っていうのは、電球を直列つなぎで点灯しようとしているときに、一つでもフィラメントが切れてしまったら全部点かなくなっちゃうよ的な場合のみ許される表現であって、それ以外の場合で使うのは誤解や誤判断を招く有害表現だ。
- 選挙とかでも同じようなことがいえると思う。候補者2人が競っているときに、結局50%を超えられるかどうかだけだと考えがちだと思う。確かにその選挙だけで、しかも当選するかどうかだけで考えるならそうだ。しかし、仮に当選できないにしても、それなりに票を集めることが出来たら、有権者は「この候補者の主張にも関心を持っている」ということを間接的に示せたことになるだろう。となれば、落選したとしても、次回も立候補して政策を実現しようという気を起こすかもしれないし、そうでなくても敵対候補もこの主張を取り込もうと考え直すかもしれない。だから全然「無意味」ではないのだ。
- まあこの論理で言えば、さっきの電球の例だって、1個切れても、2個切れても、10個切れても、全部切れても、「同じ」ではないかもしれない。だって切れている数が少なければ、復旧させるのにかかる費用(電球の交換代)は少なくて済むわけだから、それだけ目標の「全部点灯」には近いといえるわけだ。だから「切れてない電球が何個混ざっていたって結局無意味」なんていうのは乱暴かもしれない。
こめんと欄