boyaki_a/00083
のバックアップ(No.2)
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boyaki_a/00083
へ行く。
1 (2008-07-07 (月) 12:32:40)
2 (2008-07-07 (月) 13:26:05)
3 (2008-07-07 (月) 13:26:05)
4 (2008-07-07 (月) 13:26:05)
創造性あれこれ
(by
K
, 2008.07.07)
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(0)
一般に創造性が高いほうがいいと思われているけど、残念なことに創造性が高いって生きやすくはないなと思った。
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(1)
ここでは創造性を以下のようなものとして定義する。
新しい知識や知恵を生み出すこと、もしくはそれを直接・間接的に促進する行為。
この定義に照らして考えれば、自分からは何も発想せず、組み合わせることもなく、選択もせず、ただ黙って他人の言われるままに生活していれば、これは全く創造的ではない。
では次に創造的な例を考えよう。まず、既存の知識や知恵のどれにも当てはまらないような、極めて奇抜な発想をする人、これは間違いなく創造性が高い人だと思われる。これに異論のある人は少ないと思う。ここではこのタイプの人を「一流研究者」と呼ぶことにする。
次のタイプはこうだ。既存の知識や知恵を今までになかった方法で組み合わせる人である(特に他人が思いもよらない組み合わせであればあるほどよい)。この人を「二流研究者」と呼ぶことにする。・・・二流研究者は、一流研究者がいなくなってしまったら、いつかは組み合わせるネタがなくなる。そういう意味では一流研究者あっての存在だ。
次のタイプはこうだ。既存の知識や知恵をただ勉強し、良さそうなものを試し、選ぶことだ。こんなの全然創造的ではないという人もいるかもしれない。というか人によっては二流研究者すら創造性が高いとは認めないかもしれない。でもここでは一応一番最初に挙げた全く相同的ではない人よりは創造性があると認め、創造性が一応あるとしておく。この人は三流研究者ということにしよう。
最後のタイプはこうだ。みんながいいと言っている物をただ使うだけの人。言いか悪いか分からないものなんて試さない。みんながいいというまで試さない。しかも定評があるものしか使わない。そして実は大してよくなかったとしてもそれに気付かない。・・・こんなのはもはや限りなく創造性が無い人なのだが、しかし、この人たちが三流研究者の成果を増幅することで、間接的にいいアイデアを普及させ、二流研究者の次のアイデアのための方針くらいにはなっている(他でうまくいっている方法を、自分のテーマに組み合わせてみるのが簡単な割に当たりの出やすいやり方だろうから)。この人たちは「知識の消費者」とでも言おう。もちろんこの中でもより積極的にやっている人とそうでない人はいる。たとえば高校くらいまでの教師は、いいアイデアを普及させる方法としてはかなり積極的である。しかしそれでも知識の消費者どまりであることにかわりはない。
これを遺伝子における進化と比較してみると面白い。一流研究者は遺伝子のコピーミスによる突然変異に相当しているといっていい。二流研究者は有性生殖で二つの遺伝子を混ぜ合わせて子供の遺伝子とする行為に等しい。三流研究者は大量に生まれた遺伝子を選別している。そして知識の消費者が適者生存を実際に実行する。
僕らはたいていの場合、ある面では研究者であっても、ある面ではただの消費者になっている。たとえば僕がプログラミングにおいて研究者であったとしても、料理においては新作を考えたりはしないから、ただの消費者だ。もちろんもしかしたらすべての面において研究者という人も少しはいるかもしれない。逆にすべての面で消費者という人はそれなりにいるだろう。
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(2)
僕は最近、みんな創造性を失う方向に進んでいる気がしてならない。「これいいです、どうして使わないの?生産性が上がります、そんな古いやり方でがんばっているなんて人生の時間の浪費です」なんていわれると特にそう思う。今は自分が自分のやり方で満足しているのだから、それはそれでいいじゃないか(まあ基本的にこういう勧めは親切なので問題はないんだけど)。二流や一流の研究者は、それが役に立つとか立たないとかそういうことに縛られないほうが、たくさんの可能性に挑戦できるわけで、だからこれは一概に悪いとは言えない性向なのだ。まあもっと見込みのありそうな方向で研究するほうが生産性は高いのだが、しかし本当に生産性重視で行くなら実は知識の消費者になるのが一番いい(理由は後述)。
こんな意見も目にする。「僕はこんな勉強をしました(本を読みました、学校で習いました、人に教えてもらいました)。そうしたらこんなにできるようになりました。」まあこういうのはブログではよくあることなんだけど、ベージビューがすごく大きい人のページでこういう人が増えてきたような気がしている。僕の気のせいかもしれないけど。自分で独自の考え方とかを少しでも反映しようという気配がほとんどない。他の対立するやり方・考え方との比較検討もない。
で、なんでこうなってきたんだろうと思った。結局、知識の消費者であることが一番生産性が高いからなんだと思う。研究なんて時間がかかるだけだ。しかもたいていのことは研究され尽くされていて、研究したって劇的な改善は望めない。予想される伸びしろが小さい。100点満点、90点の未知の方法を探すよりも、80点、70点の既存の方法でさっさとやってしまったほうが、早く終わるわけだ。なるほど、こう考えると、創造性を失っていくのはやむをえない気はする。
でもやっぱりなんか気にいらない。そもそもそうやって浮かせた時間は何に使われているのか。そう、ただ遊んでいるのだ。その浮いた時間で何か創造的なことをすれば、いつかはみんなが90点や100点の方法を使えるようになる日が来るのに、この人たちはそうしない。・・・なんだか知らないけど、今は人生をうまく生きるのがかっこいいと思われているんだろう。うまく生きてその時間で何をするかが一番大事だと思うんだけど、その点には触れない。ただ消費してそれだけなら、それは他の誰でも出来ることをやっているに過ぎない。存在意義はかなり希薄だ。しかしそれに対して特になんとも思ってないんだろう。「旨く生きて時間を作って遊んで楽しくて何が悪いの?」みたいな。むなしくないんだろうなあ。僕には理解しにくい。
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