実際の本物よりも洗練された作り物のほうが十倍はいいと思う
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- OSC名古屋の翌日、僕は観光で「徳川美術館」にいったわけだけど、そこには「歴史」に関してのとても秀逸な説明があった。まずはそれを紹介したいと思う。
- まず、歴史家が何から歴史を解明しているのかというと、主に現存している記録、日記、手紙などからである。しかしそれらはたいてい書き手の感情や解釈が混ざっていて、どこまでが歴史的事実でどこからが創作かを判断するのはとても難しい。
- そもそもこれらの文章は書き写されなければ残る確率は低い(そうでなければ紙がぼろぼろになって失われる、火事などで失われる、なくす)。で、当時はもちろん印刷なんて出来なかったから、すべて書き写しである。そうなれば、わざわざ書き写したいと思うものしか残らない。ただ事実を淡々と記録したものなんて面白くもなんともない。むしろ歴史的事実に訓話めいた解釈がついたものや、その訓話をさらに効果的にするために誇張したもの、悲劇をより悲劇的に描写し、何かといろいろと大げさにしたもの、そういうもののほうが断然に読み物としては面白い。ということで、歴史的事実は常にゆがめられて伝えられる圧力にさらされ、歴史家は非常に苦労してこれらのノイズを取り除いている。
- 結局は日記が一番有力な資料らしい。日記は物語風になってはいないので、なんかこう話をまとめる必要がなく、そのぶん創作される可能性が低い。そもそも他人の日記をわざわざ書き写すのはなんか違和感があるが、これはそもそも偉い人に仕える人やもしくは偉い人そのものが、日常的ではない何らかの出来事があった場合に、どのように対処したかとか、そうしたらどうなったかを書き留めたものとして価値があったらしい。よく時代劇で「先例がありません」とか言う場面があるが、まさに日記は「先例集」だったようだ。だからある種のマニュアルとして非常に重宝され、多くの書き手によって丁寧に書き写されてきたらしい。なるほど。
- 結局、歴史の多くは失われていて、分かっていることは全体のごくわずかで、しかもそれらはたまに新事実の発見によって覆されていると説明されていた。
- そしてこの美術館では、そのような歴史を学ぶ必要があるのかと問いかける。そして過去の人が得た教訓を僕たちも得るために必要だと答えている。
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