左の頬を打たれたら右の頬を差し出したせいで・・・
(1)
- タイトルはいかにも特定の宗教の教義をダシにしている。これはよくなかったかもしれない。ようするに僕はここで「やられたらもっとやられろ」という考え方が人類を悪い方向へ退化させているという自説を書きたいだけである。
- やられたらやり返せ、とまでは言わない。もしこれが暴力的行為だとすると、報復のし合いは戦争を起こしてしまう。でもやられたら非難くらいはしてもいい。抗議みたいなものだ。そしてできるだけかかわらないようにするべきだ。つまり悪いことをする人たちを悪いことをしない人たちから分離する。混ぜてはいけない。
- ってここまで書いて、似たような話をかつて書いたような気がしてきた。以下はそのリンクである。
(2)
- 非難や抗議はするべきだというのは、それが悪いことだと相手に教えるためだ。だから相手に罪の意識があるのなら、つまり自分のやっていることの悪さを十分に理解しているのなら、わざわざ非難する必要はない。自分がやっていることが悪いと気がつかなかったり、もしくは当初は意識していたけど感覚が薄れてしまったりしたら、やはり認識を新たにしてもらわないといけない。そうでないと立ち直る可能性がない。そして次の被害者を生む。
- 過激な意見として、そんな悪人は殺せ、みたいなことを言う人がいる。僕はこれには賛成しかねる。やりかたが暴力的だからということもあるが、それよりも、自分たちが絶対に正しいと過信している危険性を考えに入れていないことのほうが主な原因だ。ある人々を悪人認定したとして、でもそれは向こうからすれば僕たちのほうこそ悪人に見えて仕方ないかもしれない。そうだとしたらどっちが正しいのか。それはそれぞれを隔離し、どちらが生存に有利なのかを競うしかないと僕は思う。
- たとえば子供の教育には体罰が必要だという人と、そうではないという人がいると思う。体罰があるから乱暴な大人になるのか。体罰がないから口ばかり達者でわがままな大人になるのか。どっちが正しいのか。それは、体罰が必要だと思う人たちと、体罰は絶対にいけないと思う人たちを分離して、100年とか200年とか生活してもらって、どちらが繁栄しているかで決めるべきだ(お互いにお互いを有害な存在だと思っているのなら、分離はそれほど難しくはないはずだ)。いや、別に第三者が判定する必要はない。繁栄していないほうはいずれ滅びる。
(3)
- ケンカはよくない、みんな一緒に仲良く暮らしましょう、みたいな事を言う人がいるが、これはどちらが正しいのか決着をつけようとする試みを妨害し、(どっちが悪いのか分からないけど)悪い習慣を続けさせるという意味で、かなり有害な行為であると思う。僕はこんな人を「いい人」だとは思わない。
- 左の頬を打たれたら右の頬を出す人がいい人だということになっているらしいが、僕はこれも全く認めない。それはむしろ他人の頬を叩くと気分がよくなるという人間に対して、非常に暮らしやすい環境を提供しているだけだ。つまりそういう人を増やそうという行為に他ならない。犯罪者を増加させるような人間のどこがいい人だ?むしろ犯罪幇助の悪人じゃないか。よく考えもせずにこんな行動を取るべきだと考える人がいるから世の中がよくならないんだ。責任を取れと僕は言いたい。責任が取れないのなら僕はこういう人から隔離された側の社会に住みたい。
- 高い税金に不満を感じつつも、文句も言わずに素直に支払う人はいい人じゃない。職場環境に不満があるのに、けなげに元気に振舞い問題がないかのようにする人もいい人じゃない。常に文句を言う必要はないけど、時には文句も言わないといけないのだ。そうじゃないとバカな政治家や上司はどうやって自分のやり方に改善の余地があると気づけばいいのだ。そして何回言っても改善しないし、自分の提案のほうが絶対いいと思えるなら、そんな人たちとは決別すべきだ(他国へ引っ越すとか、職場を変えるとか)。
こめんと欄