人生の目標(?)とか
(1)
- 僕は小学生くらいまで、大人はみんなえらいと勝手に思っていた。たとえば隣りの○○さんは新幹線の車輪を作ったり、近所の○○さんはロケットの部品を作ったり、うーんなんというか、人に誇れる仕事をした人だろうと思っていたのだ。・・・そして自分も大人になったら何かしたいと思っていた。何をしようかと考えていた。
- そして日本にはたくさんの人がいるから(このときの僕は発想が貧困で、世界までは想像もつかなかった)、みんなが1つだけ立派なことをすればそれで十分に世の中は成り立つと思ってた。で、みんなその1つに全力を傾けて生涯をかけてやって、それが済んだらそのときの報酬でゆっくり暮らせると思っていた。・・・生涯のうちに2つも3つもやる必要はない。だからこそ1つに時間をかけてやれるし、だからこそ立派な成果になるんだろうと。
(2)
- しかし自分の身の回りを見てみると、どうもそうではない。親類をたどれば確かにすごい人もいるみたいだけど、両親や親族や近所の人や友達のお父さんお母さんは、どうもぱっとしないとい。しかも、むしろそういう人のほうが大多数なのではないかと思えてきた。僕はこれにひどく失望を感じたのを覚えている。それまで僕は大人はみんな当然のように尊敬していたのに、なんかそうでもないんだなあ、と。
- しかも高校生くらいになって特に思ったのは、何か大きな業績を残した人であっても、それは1つだけやっていれば許してもらえるわけではないということだ。ヒット曲を出した歌手は新曲を期待される。ベストセラーを出した小説家は続編を期待される。しかも期待している人の中にはあまりぱっとしない人まで含まれる。なんでなんだ、それは不公平じゃないか。がんばった人に鞭打つのか。期待されている人がそれでいいというのならいいけど、でも基本的にこれはおかしくないか。
- 結局、日本は、というか世界は、一部の優秀な人たちが不当に何人分も働かされた結果として維持されているのだ。がんばった人はさらにがんばらされる。がんばらない人はがんばらない。もちろんがんばった人はたくさんのお金をもらえるのかもしれない。でもそんなお金も「お前ばっかりお金持ちなのはずるい」とか、「もうお金はたくさんあるんだからこれ以上はいらないでしょ?」と報酬が下げられ、結局ほとんど報われない。なんてひどい仕組みだろう。僕はそんな社会に絶望していた。お金なんて結局は金属片、紙切れだ。そんなものを渡しておけば優秀な人をこき使えるのだ。本当にあんまりな仕組みだ。
- 「お前は優秀だからこれもやれ、オレは能力がないからやりたくてもできないんだよ、いいよなお前はできるんだからさ」こんな会話が普通に成立しそうなこの世の中。できないことは申し訳ないことではないのか?できなくても生きていける(社会的な立場がある)のは感謝すべきことではないのか?今はできなくてもいつかできるようにがんばろうとか、このままじゃいけないと恥じ入らなくていいのか?・・・僕はこれをずっと思ってきた。
- でも僕みたいな考え方は少数派だった。多くの人は「他人に迷惑さえかけなければ何をしてもいいじゃん」「別に普通でいいよ」「がんばっても疲れるだけだし」みたいに考える(そう見えた)。
(3)
- がんばるのを放棄した人と最前線でがんばる人の差は、今や大変なものになっていると思う。文化や文明が進歩しているので、最前線の人は年々レベルが上がっていると思う。一方で、がんばらない人は周囲を見て脱落しない程度まで手抜きをすればいいと思っているので、というかむしろ最小の労力、最小の能力で不自由なく暮らすことが「要領がいい」などという美徳にまでなりつつあるので、手抜き競争みたいな状態になり、ゆっくりとレベルが下がっている気がする。
- そしてがんばらない人がある日ふとがんばる人たちの生活をうらやましく思い、ちょっと自分も追いついてやろうと思ったが追いつけないことに気がつく。そして格差だと騒ぐ。騒げばそれまでより少ない労力で追いつくための道を誰かが用意してくれるだろう。また楽しているわけだ。
(4)
- で、何で今さらこんなことを書いたのかというと、こういう考えの人って僕のほかにもいたらうれしいなあ、とふと思っただけ。・・・結局考え方は人それぞれだし、僕はそれでいいとおもっているから、自分の考えを力説するつもりはない。
(5) 脱線:仮に格差を嘆くとしたら非難すべき相手は誰か
- AさんはBさんと同じ努力をしたのに、Bさんのようにはなれなかった。これは格差だ、ずるい!(やや極論)。もって生まれた才能の違いだろうか。それとも幼少期の教育の差だろうか。それとも学校や塾に通うお金がなかったからだろうか。
- いずれの問題にせよ、もし自分の努力不足ではないと断言できるのなら、それは両親のせいである。政府のせいではないし、ましてや勝ち組の人たちのせいでもない(もちろん規制やしきたりなどで同等以上の能力があるのに機会がもらえないというのなら、行政や既得権益者を責めるべきだ)。
- 才能がないのがもし遺伝的な問題なのであれば、そのような遺伝子を持ち合わせていなかった両親を責めるしかない。自分はそんな親になるまいと思うのなら、とにかく良い遺伝子を持っている人と結婚するべきだ。子の代では十分に遺伝的な改善が見えないかもしれないが、孫の代、ひ孫、その先ととにかくよい遺伝子を掛け合わせていけばいずれはよくなるはずである。
- Bさんのお父さんはお金持ちで、だから財産があって学校卒業と同時に事業を興せていいな、みたいな事であれば、これも両親を責めるしかない。これを反省してこんな親になるまいと思うのなら、あなたは自分の子が生まれるころまでにとにかく貯金を増やしておくしかない。
- 幼少期の教育のせいだと思うのなら、それも親のせいだ。Aさんにできることは自分の子には十分な教育を受けさせることだ。小さいときからピアノをやっていた、でもうちにはピアノがない。Aさんのうちにはある、だから追いつけないんだ、とかいうこともあるかもしれないが、それならAさんは自分の子にピアノを与えればいいだろう。
- なんにせよ、両親、もしくはおじいさんおばあさん、もしくはそれよりずっと前の先祖のたちが、十分な配慮をしてこなかったツケがAさんに反映されただけなのだ。それを忘れてはいけない。そしてAさんもあきらめて同じようなことを繰り返すのであれば、Aさんの子供も似たような結果になるので、Aさんは両親や先祖を責める資格はない。・・・両親も先祖もそして自分も責めないで、そのほかの他人を責めることはたやすいことだけど、そしてそれで何か改善されるかもしれないけど、そんなことをしてもそれは「ずる」をして格差を一時的に解消しただけであって、本質的な改良は何もないので、またいつか同じ問題がぶり返すかもしれない。そしてそれはまさに自業自得である。
(6) 脱線:苦労するべきなのか
こめんと欄