政府がするべきこととは何か
(0)
- ページタイトルはものものしくて考えるとややしそうだが、実に簡単な判断基準を考えた。
(1)
- そもそも政府なんていうのは、暴力団が作った仕組みだと思う。だってそうだろう、武士が武力を持ち、戦争をし、領地を取り合う。まさに暴力団だ。そして年貢を納めないと重罰をかけると言って農民・商人を脅して税を巻き上げる。・・・この仕組みが出来て何百年もたち、理念は変わったかもしれないが、システムはほとんど変わっていない。
- 仮にこういう忌まわしいシステムを一度完全に捨てて、そこから政府のようなものが自然発生したらどうなるのか考えてみた。
(2)
- 政府も税もない状態を考える。その代わり税金で運営されていた警察も消防もない。道路も舗装されてなくて、水道も整備されていないかもしれない。この状態である程度の規模の人たちが暮らしているとしよう。
- 泥棒が出れば自分で追いかける、火事になれば自分で火を消す(たぶん延焼を恐れて近所の人も手伝ってくれるとは思うけど)。水が必要なら自分で汲みに行く。・・・きっとこうなるだろう。
- そうしているうちに、たとえば泥棒が出たときにお金を払えば手伝ってくれる人が現れるかもしれない。警察という職業の誕生だ。また事前にお金を払っておけば、常日頃から警備をしてくれて、被害にあったらその金額を保証してくれるような、警備会社だってできるかもしれない。この警備費用が十分に安ければ、個人はもう自衛するための努力をしないで仕事や趣味に専念して、警備はこの会社に任せてしまうかもしれない。そのほうが安上がりならきっとそうするだろう。そして警備会社のほうにしてみれば、地域内に分散した100人を守るのと地域全体を守るのとを比べると、費用が大きく違うわけではないから、地域全体をカバーできるのであれば一契約当たりの警備費用を安くすることが出来る。
- こうして出来た警察にみんなで費用を払うのだとしたら、それは税金と同じようなものといえるだろうし、警察業務も似たようなものだろう。・・・でも違うところもある。それは警備費用を払わなくても、罰せられないということだ。単に警備してもらえないだけである。また、警備会社が複数あれば選ぶことも出来る。
- 自分で警備したほうが安上がりだと思うのなら、警察にお金を払う必要はない。しかも一番自分に合った警備会社を選べる。・・・これは結局「自分ひとりでやるよりも」損であるということは絶対にないということだ。得だと思うから支払うのだ。
- 警察だけではなく、消防も道路整備(=つまり舗装されたすべての道路が有料道路になる)も、水道維持も学校もみんなこんな感じになったとしよう。そしてその集合が政府だとするなら、税金を払わない人なんているだろうか。もちろん自分で全部やる人は払わないだろうけど、払う人はみんな自発的に払う。文句を言いながら払う人はたぶんいない(値上がりがあったら文句を言うこともあるかもしれないけど)。税金というのは単にサービスの対価であって、義務ではない。
- そもそもサービス内容にかかわらず収入によって税を納めろなんていうのは、いかにも年貢の思想である。しかし年貢は税率が一定だった(と思う)。今の日本政府は累進課税で(まあどの国でもたいていは累進課税だけど)、つまり取れる人からはとことん取るという方針だ。・・・もちろん、取るだけとっても、それぞれに対してそれを超えるサービスが提供できているのなら文句はない。100円しか払っていないのに150円のサービスを受けられるのだとしたら文句を言う必要があるだろうか。でも現状はそうじゃない人がでてしまっている。だから「こんな税金を払うのはバカらしい、だから海外に移住する」という人が出てくるのだ。
(3)
- 結局、「日本政府組」であって「日本政府株式会社」ではないのだろう。僕たちは国民といっているが、それは組員であるだけだ。そして組の中で組長など幹部を決めるための「選挙」なるものがある。もしこれが「日本政府株式会社」であれば、選挙は株主しか参加できない代わりに、国民はその会社を選ばなくてもいい事になる。「税」なんてものはないから、「脱税」なんていう犯罪もない。あるのは後払いなのに代金を支払わなかった「未払い」という商業上の普通の犯罪だけだ。
- 「日本政府株式会社」方式なら、みんなでやったほうが安上がりになることだけを政府がやることになる。個別にやったほうが安上がりなら、それは政府はやらない。・・・なんて効率のいい政府だろう。結果的に、政府が存在しないときよりも存在したときのほうが効率がいいということが保証されている。・・・これに対して今の日本の政治ニュースはどうだろう。「税金の無駄遣い」の話のなんと多いことか。国民に対して1万円分のサービスをするために2万円、3万円もとっているのではないだろうか(実際は違うかもしれないが、そう思われてしまうところが問題・・・もしこれが企業なら、そう思われた時点で誰も買ってくれなくなる)。それでみんな損している(損した気分になっている)。こんな仕組みのどこがいいだろう。
- 企業のニュースでは不法なことをした話はあるけれど、めったに無駄遣いの話はない。新しい分野に進出しようとしたけど、投資の失敗、とかはあるだろう。また社内での横領事件だってあるだろう。でも顧客から見れば(株主でなければ)、商品の内容と質と値段が変わらない限りどうだっていいことだ。企業がどれほど負債を抱えていても関係ない。・・・これに対しなぜか日本政府の話はそうではない。行政サービスの内容と質と税率が変わらなくても気にする。すごく気にする。これはつまり、国民は強制的に株主にさせられているし、顧客にさせられているということなのだろう。まあ組員というのはそういうものなのかもしれない。
- 日本政府と国民とが、企業と顧客のように付き合えたらどんな楽だろうか。どうして国民全員で政府のことを思い悩まなくてはいけないのか。その分代金を安くしてほしいくらいのものだが(=税金を安くしてほしい)、実際はむしろ高い代金をとられている場合もある。どう考えても非効率だ。
- 日本政府株式会社なら、たぶん「汚職」や「ヤミ献金」みたいな犯罪もなくなるだろう。会社同士の提携や資金援助でしかないから。
(4)
- 税金が行政サービスよりも高くなる場合が存在する原因は大きく5つ考えられる。
- 1.実は個別にやったほうが安くなるようなことを無理に全員に対してやっている。
- 2.公務員が無能(もしくは人間が有能でもそれを生かせないシステム)。作業内容に対して給料が高すぎ。
- 3.経済的弱者への負担の軽減を優先するあまり、経済的強者への負担が大きくなりすぎた。
- 4.負債(国債など)の返済経費の存在。
- 5.独占障害(ライバル企業がいないので改善の努力が少なすぎる)。
- まあ3.の善悪については多少意見が分かれるだろうが、それ以外は多くの人が「解決すべき」と感じると思う。そして許しがたいのは、1.2.4.5.の理由で非難されると、3.を引き合いに出して、「仕方ない」みたいな言い訳をする。つまりこうだ。「弱者を救おうとするから高額所得者の税率が高いんですよ。公共性の低いことでも(例:結局ほとんど使われない道路の建設とか)、弱者を救うためには公費でやらないといけないんですよ(1)。公務員が無能って訳じゃないんですよ(2)。給料だって民間より安いですよ。税率を上げないためには借金もやむをえない場合があるし、そうすると返済費用がかかるのも仕方ないですよ(4)。独占じゃないと高額所得者は他の企業を選んでしまいますからね。それじゃあ弱者を救うための費用が確保できなくなっちゃいますよ(5)。」
- これじゃあどうしようもない。・・・しかし3.は果たしてそんなに大事なことなのか。そしてそれは本当に今の方法でなければ解決できないことなのか。・・・3.を無視して自由競争させたら、しばらくは弱者には厳しいかもしれないが、10年後には競争の結果、劇的に安くなったりして、結果的に弱者すらも得をすることだってありうるではないか(電話代とかは民営化で競争したら、ものすごく安くなった気がする)。
- それに、仮に弱者に対して改悪になったとしても(=負担増になったとしても)、それは「弱者いじめ」ではないと思う。だって、税金のように脅されてお金を巻き上げられて損をしているというわけじゃない。非独占で自由競争なら、いつでも払わないという選択は可能なのだ。つまり最悪でも得をしなくなるというだけで、損をするわけじゃないのだ。・・・それに、他人に迷惑をかけて生きているんだというのは、果たして本当にうれしいのか。僕だったらうれしくない。
- 僕は3.は単独ではそれほど悪くはないとしても、そこから引き起こされる弊害まで含めて考えれば、非常にマイナスだと思う。
(5) 追記 「両者が満足できるところまでにしようよ」
- たとえば報道を考える。世の中にはテレビに出たい人、出たくない人がいるのだろう。新聞に載りたい人、載りたくない人もいるだろう。また出演したにしても、こういう内容ならいいけど、あんなことやそんなことは報道してほしくない、みたいなこともあるだろう。・・・一方で、視聴者や読者はタレントの○○が□□している番組が見たいとか、記事が読みたいとか思っているだろう。
- 世の中の雰囲気を見回してみると、この両者の組み合わせは、どちらかというと視聴者や読者の欲求が優先されているような気がする。大衆の要望をかなえることは公共の福祉だといわんばかりの意見まである。僕はこれは非常にまずいと思う。・・・これは多数決の横暴を勝手に拡張したものだ。多数決は「どうしても早期に決めなければいけないこと」があって、だからやむなく使っている方法なのに(時間があれば客観的な事実を集めて検討して合理的な方法はどちらなのか検討するべきだ)、なぜか「多数は正しい」という誤解があって、それで多数のために少数を犠牲にするのは当然みたいな話になる。
- 政治汚職事件などは、たとえ関係者が嫌がっても取材し報道するべきだと考えるかもしれない。確かにこれは一理ある。これは僕たちに選挙権などの参政権があるからだ。参政権がある以上、国民はすべての政治問題の責任を負っているから、これは報道しなくちゃいけない。投資家に正しい投資情報を伝えなければいけないのと同じだ。・・・でも理想を言えば、こういう場合でも報道は控えてほしい気がする。何か政治的に怪しいことがあったとしよう。○○について情報開示を求めたが断られた、とか(ここまでは情報開示請求にいった人がこのことを報道してほしいと思いさえすれば報道できる・・・報道のために無理強いした内容じゃないから)。これだけで有権者は強い不信感を持つべきだ。3日以内に関係者からの合理的な説明がなければ、関係者をリコールしよう、くらいに思えばいい。これで関係する政治家は自発的に必死になって説明してくれるはずだ。そうでなければどんどんやめさせてしまえばいい。まあなんというか、政治家の政治行動については疑わしきは罷免してしまえというわけだ。罷免は罰ではない。選ばれていた状態から選ばれていない状態に戻っているだけだ。プラスがゼロになっているだけで、ペナルティじゃない。だから疑わしきは罰するなという裁判の精神とも矛盾しない。・・・その後もし政治家であることを悪用して悪事を働いていたことが判明すれば、これは単なる不信感・説明不足を理由にした罷免だけでは済まされず、背任の罪で刑を受けたり損害賠償をするべきだろう。
- 話が大きくそれてしまったけど、結局、両者が満足できる範囲までしかやらなくても、世の中は十分に回せるんだと思うのだ。累進課税や社会保険の弱者への優遇みたいなのは、どうしても不満を持つ人が出てしまうだろう。きっとこれは「大衆のためをいいわけにした過剰報道」と同じようなものだ。こんな、誰かの得は誰かの望まない損によって実現する、といったことにまで手を染めるべきじゃないんだ。
- 生活が苦しい人を助けるには、お金持ちからお金を奪うだけが方法じゃないだろう。安く暮らせるように団地を大量に立てたり、丈夫で長持ちする安い衣類を大量生産してもいいだろう。WFPのビスケット工場と同等なものを立てて、1食分25円で売ってもいいはずだ。これなら貧乏でもお金持ちでも分け隔てなく利益がある。だってお金持ちだってその安い家に住んでいいはずだし、25円のビスケットを食べてもいいはずだから。・・・要するにこれらはすべてスケールメリットだ。大量生産でコストを下げているだけなのだ。政策がこの範囲に収まっている間は、すべての国民に利益があって、誰も犠牲にはしていないのだ。
こめんと欄