過失でなければ無罪という考え方
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- 殺人事件などで、精神鑑定をして責任能力がないと判断されると、その人は無罪になる。これは「心優しい」やり方ではあるけど、果たして人類にとっていいのだろうか。
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- 殺意がなかったからとか、責任能力がどうのこうのという理由で無罪にしたり刑を軽くしたりして、比較的早めに(もしくはすぐに)日常生活に復帰できてしまうっていうのは、僕は良くない気がする。その人がまた殺人をしない保障がどこにあるだろう。もちろん、その後いちども人を殺すことはないかもしれないけど、でも一度はやってしまったのだから、なんらかの因子を持っているとも考えられる(人を殺したい衝動がなくても、人が死ぬくらいの不注意さはあるわけだ)。仮に本人は再犯しないとしても、この人の子供にそういう因子を引き継がせてしまう可能性はないのか。
- もちろん実際には殺人にまではいたらないが、そういう因子を持っている人はたくさんいるのかもしれない(私もあの状況なら殺人をしかねなかった、と思うとか)。でも、そうではない人もいるはずだし、それに殺人衝動を持っている人だって中にはいるかもしれない。そういう人を排除していこうという仕組みはないのか。
- たとえば犬を掛け合わせているとしよう。おとなしい犬がほしいなら、気性の荒い犬には子犬を産ませないようにするべきだ。もしかしたら気性の荒い犬でも、実は遺伝的ではない理由で(後天的な病気などで)気性が荒いだけかもしれない。そうだとするとこの方法は少しかわいそうだ。逆に、おとなしく見える犬でも、実は遺伝的には凶暴でそれを教育によってかろうじて抑えていただけなのかもしれない。・・・しかしそうであっても、僕たちには分からないのだから、とにかく結果で判断するしかない。考えようによっては、気性が荒くなる病気にたいする抵抗が弱いともいえるし、それは好ましくない。また、教育によって抑えられるタイプの気性の荒さでしかないともいえる。だから結果だけで選抜しても、何もしないよりはずっと効果があるだろう。
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- 今の裁判の考え方だと、殺人しかねない因子を持ちつつ、それを通常は意思の力で押さえ込む、みたいな人が増える結果になると思う(意志を重視するので)。これは決壊しそうなダムのようで怖くないだろうか?・・・しかし一方で、責任能力がない(=意志の力が弱くなる人)にも甘い。つまり永遠に犯罪はなくならないのかもしれない。しかも責任能力がないと無罪なので、わざと殺人する人よりも生き残りでは有利だ。となると最終的には、健全でまともな人と、責任能力の全くない人の両方が共存するような両極端な世界になるのだろうか。これもかなり恐ろしい。
- それとも、たとえ犯罪であっても人を殺すことをためらわない人を社会にある程度温存しておかなければいけないと考えているのだろうか。戦争の時にはそういう人も多少は必要なのかな。でも僕はそんなのはいやだなあ。きちんと統制された軍隊だけでいいと思うんだけど。
こめんと欄