算数教育に見る過剰な抽象化
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- このページを書くきっかけは、NHKわくわく授業の2006.11.26の回をみたこと。教師の教え方に問題はないと思うが(というか十分にすばらしい)、児童の反応がどうも気になった。このページは批判めいて書いているが、僕は批判をしたいのではなく、もっとよくするにはこういう観点で教えるべきだったのではないか、という趣旨だ。
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- 96cmのテープを2cmずつ切ったら何本になるか?
- 96cmのテープを3cmずつ切ったら何本になるか?
- なぜ「割り算」なのか
- 児童の回答:「分けるから割り算」
- 授業ではこれで流している。確かにこの回答で問題はないが、僕だったらそういう回答はしない。100cmのテープを20cmずつ切ったら5本になるだろう?5cmずつ切ったら20本になるだろう?だからこの問題は割り算だと思う、と答える。
- 僕の回答は、即座に答えがわかる問題になるように数値を一時的に変更し、それで数値間の関係を見出すということである(頭の中で実際にテープを分割している)。「分けるから割り算」みたいな考え方だと、未知のケースに対応できない。・・・僕の方法の欠点は、頭の中で生成する例が足りないと、誤った式を構築してしまうことがあるということである。
- なんだかえらそうに書いたが、僕だって小学生のときは「分けるから割り算」くらいにしか考えていなかった。でも僕は小学生こそこの考え方を身に付けてほしいと思う。少なくとも僕は小学生のときにこのやり方を教えてほしかった。
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- 96cmのテープを2.4cmずつ切ったら何本になるか?
- 児童の回答:わからない・・・そして妙な回答をでっち上げる
- この時点で妙な回答が出るのはもちろん教師の意図したことであって問題はない。しかし僕は児童の思考プロセスに大いに疑問を感じる。まずわからないという回答は素直でよい。それでわからないからどうするかだけど、なぜ妙な値をでっち上げるんだ?・・・僕だったらまずノートを切ってつないで96cmのテープを作る。そしてそれを2.4cmずつ切る。そして数える。
- 僕のやり方を笑いたければ笑え。しかし僕のやり方のどこがまずい?・・・というか、なぜ僕のようにしない?みんな数字ばかり見つめる。わけのわからない操作をする。違うだろう?今求められているのは答えを求める方法を編み出すことではなく、答えそのものなのだ。そして答えを出す方法はわかっているじゃないか。切ればいいだけなんだ。それで絶対に間違いない答えが出るじゃないか。・・・というかむしろ、毎回紙とはさみで切るのが面倒だから計算するんじゃないのか?計算するほうが面倒なら切ればいいじゃないか。
- なんていうか、児童が誰一人としてそういう風にしないことが気になった。未知の問題に遭遇したとき、とにかく既知の問題に還元して正しい答えを出そうという問題解決能力はないのか。数字をただいじくりまわそうとする態度は果たして数学的思考力があるといえるのか。運良くそれで正解が出せたらそれはその児童にとっていい経験なのか?今後未知の問題に対してあてずっぽうをやる習慣がつくだけではないのか?検証する能力がなく、また検証しようともしないし、検証しないことはいけないことだと思いもしないというのはひどいのではないか?それなら分からないというほうがまだマシなのではないか?
- ちなみにこの問題を教える前に、960mmのテープを30mmずつ切ったら何本になるか?、みたいな演習はやらなくて良かったのかな。つまり単位を変えても答えは変わらずに正しく出せるということを。僕だったら教えておくだろうなあ。だから(単位さえそろっていれば)どんな単位で扱ってもきちんと答えが出せる。どんな単位を使うか悩まなくていい。割り算ってすごいね、みたいな。
- 数字ではなく、96.0cmのテープを3.0cmのテープを渡して、これと同じ長さのテープを作れるだけ作ってねといわれた。何本作れるでしょう?Aさんはcmで長さを測って96÷3。Bさんはmmで長さを測って960÷30。正しいのはどちらでしょう?
- ある児童がわざと小数点を無視して計算して4本という解を得ていたが、96cmというテープと2.4cmというテープを実際に見れば、いくらなんでもこれはおかしいと気が付くと思う。そういうことを考えようともしないのは(それまでの教育が)良くなかったのではないだろうか。
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- その後授業でもテープを用意して検証している。mmで解を出すように誘導している。割り算が単位変更に対して影響されないという説明はない。おそらく当然のことだということになっているのだろう。単位をそろえなければいけないという説明はない(なぜそろえないといけないのか、など)。
- 解が単位変換において不変であるという説明をあと付けで行ったがこれはあまり十分ではなかった。2.4cmは24mmと同じなのだから、96÷24でもいいのではないという児童がいた(単位の単元では2.4cm=24mmとおしえるくらいなのだから)。式中の単位をそろえなければいけないという原則を知らなければ、この疑問は当然だろう。しかし教師はこの疑問を理解することができず別の説明をしていた。
- 結局正しい解(実際にテープを切った解)こそが絶対に正しく、計算というのはそれを省略するためのテクニックに過ぎないという考え方が浸透しているようには見えなかった。授業では「考えようとする態度こそ重要であって、本当の解はそれほど重要ではない」みたいにみえる。間違ったかい計算法について詳しく解説しすぎるというのはいかがなものだろうか。・・・また児童が、実際にテープを切ることを「めんどうだ」というのも気になった。つまりもはや実際の解には興味が薄いということになる。児童の考えでは答えの候補は0.4、4、40であって、このどれであるかを調べればいいという態度で、だからテープを30本切り出した時点で「40だな」と予想している人もいた。こういう態度も危険に思う。
- なんというか思考実験に走るあまり、実際の実験をあまりに軽んじているような雰囲気だ。
まとめみたいなもの
- 検証する能力がなく、また検証しようともしないし、検証しないことはいけないことだと思いもしないというのはひどいのではないか?それなら分からないというほうがまだマシなのではないか?
- 我ながらこれは深い。僕たちが小学校や中学校で学ぶべきはこの態度だ。自分に何ができて何ができないか。自分の理解の範囲において、何が検証可能で何が検証可能でないか。仮に難しい計算ができないとしても、検証可能ではないものをうさんくさいと思うだけの分別があれば、いかにもうさんくさい新興宗教の勧誘や、うさんくさいセールスなどにはひっかからなくなるのではないか?デマに振り回されることもなくなるんじゃないか?マスコミの過剰なあおりにも踊らされずに済むのではないか?・・・ぶっちゃけ計算なんか計算機で代用できる。でもこういう態度はそうはいかない。これこそ現代社会においてとても大事なことなんじゃないのか?
- このページのタイトルの「過剰な抽象化」というのは、抽象化することで物事を一般的に処理することができる反面、具体的な事象との対応を忘れ、問題解決能力が損なわれているということ。実際のテープを切り分けるという問題ではなく、たとえばコンピュータゲームの中のパズル問題かなにかのように感じているのではないか。そんなことで果たして算数を身に付けたことになるのだろうか。こんなことで勉強しようという意欲が維持できるのか?実生活で生かせる見込みがもてないのに。
こめんと欄