(たぶん)あせって無理に結婚する必要はまったくない
- (by K, 2007.08.02)
- 旧タイトル:DNAによらない進化
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- 僕ももう32歳になっていて、同期の友人はどんどん結婚しています。実にめでたい。・・・で、周囲の人が僕を心配するわけです。僕としては、心配無用といいたいわけです。
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- 結婚するべきだという人に向かって、なぜ?と問うと「子孫を残すため」という答えが返ってくる場合がある。それは親からDNAをもらったときに自動的に発生した責務だとか、命のリレーを勝手にや絶やしていいと思っているのかとか、まあいろいろある。
- もちろん、好きな人と一緒に暮らせたら幸せだと思うでしょとか、わが子がいたらもっと楽しいよ、という理由ですすめてくれる場合もある。その場合は別に反論はない。僕もまったくそのとおりだと思う。僕が反論したいのは、子孫を残すこと(不妊の場合もあるだろうけど、せめて子孫を残そうと努力すべきだということ)を理由の第一に掲げる人たちに対してである。
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- 人間はどんな考え方を持つかで大きく変わると思う。同じ人種でも、アメリカに住むか日本に住むかで行動様式は大きく影響されるだろう。肉が好きか魚が好きか野菜が好きかも嗜好や考え方などで決まると思う。お米が好きかパンが好きかトウモロコシが好きかもちがうだろう。DNAで決まるわけじゃない。もしDNAで決まるのなら一生を通じて好みは変化しないはずだから。・・・でも何を主食にするかというのは生物としてはかなり重要なことだと思う。
- DNAで決まるのは最大の背の高さ(栄養状態が悪ければ最大には行かないかもしれない)、顔つき、肌の色、目の色、髪の色などの身体的特徴、太りやすいかどうか、病気になりにくいかどうかという健康に関する特徴、体力の最大値、くらいだと思う。もしかしたら脳容積なども遺伝するかもしれない。
- これらはもちろん重要なことだけど、でももっと生きていくうえで大事だと思うのは、その人が物事を前向きに考えることができるかどうかとか、苦境に立ってもあきらめないで努力を続けられるかどうかとか、他者を救うことにためらわないかどうかとか、物事を論理立てて深く考えられるかどうかとか、安易な道に妥協せず長期的視点で行動を選べるかどうかとか、そういうことなんじゃないだろうか。
- そしてこれらはDNAによって決定されるというよりは、考え方とか信念とか知識とかそういうもので決定されるのだと思う。
- この関係を僕は次のように考えている。DNAで規定されるのは人間というハードウェア。そして考え方とか身に着けた習慣などはソフトウェア。人類はDNAのみで進化するのではなく、考え方の変化によっても進化できるようになったのだ。DNAの変化はとても遅くて進化がゆっくりだけど、考え方は急速に改良できる。このソフトウェアとハードウェアの分離を獲得できたからこそ人類の進化は他の動物と比べて圧倒的に早いんだと思う。
- 仮に1万年前の人類を連れてきたとして、3世代くらいをこの21世紀で暮らさせてすっかり文明に慣れさせれば、顔つきが少し古風なだけで、能力的には十分に問題なく適応できるのではないかと思う。つまり1万年かかって苦労してつないできたDNAの進歩なんてせいぜいその程度なのだ。だから仮に自分の血筋が絶えてしまっても嘆くことはない。適当に養子をもらってあなたの持っているソフトウェアをインストールすればいい(知恵や知識を教えてあげればいい)。・・・逆に僕たちの時代の子供が1万年前の社会に生まれても、その時代を超えた能力を発揮することは多分ないだろう。むしろ野性的能力に欠けて、足手まといかもしれない(野性的な能力が退化してきているかもしれないので)。
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- 人間の遺伝要素がDNAと考え方に分離できるとしたら、たとえばDNA上の覇者は多分ジンギスカンである。彼は自分の遺伝子を非常にたくさんの人に残したらしく、彼のDNAの一部を受け継ぐものは極めて多いと思う。また初代天皇も現代の天皇にDNAを残していると思う。まあ何度も混ざって、元の部分は極めて少ないかもしれないけど。まあ少なかったとしても、初代天皇がいなければ天皇家は始まらなかったのだから、DNAの観点から見た存在意義は十分にあっただろう。
- 一方考え方の覇者は、キリストやマホメット、ガウスやオイラー、ニュートンやアインシュタインなどだと思う。彼らの考え出した考え方は今も残っているし、その発展版は今でも非常に役立っている。キリストに子孫がいたのかどうかは僕にはわからないけど、仮にいなかったとしても、彼は十分に「子孫を残している」。つまりハードウェア上の子孫はなくても、ソフトウェア上の子孫はあるわけだ。
- 考えてみてほしい。ハードウェア的な子孫なんて、せいぜい10人しか残せないだろう。常識的に考えれば5人以下だろう。しかしソフトウェア的な子孫のほうはすごい。仮に科学上の大理論を考え付いたとする。それが公開されれば、一気に何万人もの人々の知るところとなる。後世にも残るだろう。1000年たってもまだ残っているかもしれない。ハードウェア的な子孫がこんなに長く残せるだろうか。すごい横綱がいたとして、30世代後の子孫も横綱になれるだけの能力を維持できているだろうか。だから、どちらの子孫のほうが重要かは自明のような気がする。
- PCの世界だって似たようなものだ。CPUがIntelかAMDかVIAかなんて、それほど重要だろうか。それよりもOSやアプリケーションのほうが重要なのではないか?もちろんCPUの違いによって処理能力は違ってくるし、HDDやメモリの容量だってどうでもいいなんていわない。でも、ソフトウェア(というかアルゴリズム)がダメならハードウェアがどんなによくても本当に役立たずじゃないか。ソフトウェアがしっかりしていれば(=OSASKなら)たとえ33MHzのCPUでも、そしてメモリが少なくても、それなりに使えるのだし。
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- なにも学問上の大発見だけがソフトウェア的な子孫じゃないと思う。たとえばベートーベンのように音楽を残すことだってできると思う。ピカソのように絵を残してもいい。大量の複製が作られているし、これからもさらに複製が作られて、きっと1000年後も残るだろう。
- シェイクスピアのように物語を残すこともできる。ピラミッドのように建造物を残すこともできる。とにかくなんでも、他の人から見て「いいな、これは残したい」と思わせるようなものでありさえすれば、周囲の人や後世の人たちが保守してくれるのだ。
- そして僕の「30日でできる!OS自作入門」は、たぶん僕の寿命よりは長く残ると思う。何人かの人はそれくらいに気にいってくれたから。まあそのころになってもこの本に価値があるかどうかはわからない。もうOSなんて誰でも作れるようになってこの本なんて要らないかもしれない。でも仮にそうだとしても、もしそれくらいのOS開発スキルの普及のきっかけが僕の本だとしたら、やっぱり僕は新しい文化のきっかけを作り、残したんだと思う。だからどちらにせよ、僕はソフトウェア的な子孫を残すのにとりあえず成功したんだと思いたい。
- もちろんOSの開発そのものが完全に廃れた場合は、僕はソフトウェア的な子孫を残すことに失敗したことになる。
- だから僕はもうあせって結婚しなくてもいいんだ。仮に結婚できないまま死んでしまったとしても何も残らないわけじゃない。もちろんもっとたくさん残せるならそのほうがいいし、ハードウェア的な子孫を残すこともできればもっといいかもしれない。でも世の中には結果的にハードウェア的な子孫しか残せない人がたくさんいるだろうし、ソフトもハードも残せない人だっているだろうから、それに比べればずっと幸せなんだと僕は思う。(うまくいえないけど)だからあせるべきなのはたぶん僕じゃない。
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- ちなみにこのページの内容だって、何か「いいな」とか「おもしろいな」と思ってもらえて覚えてもらえたら、僕のソフトウェア的な子孫が繁殖していることになると思う。うしし(笑)。
- この文章を書いた僕は、川合というハードなのか、川合というソフトなのか。僕としては他のハードウェア上でも僕の考え方は十分に乗せられると思うし(=他の人でも同じような考え方をすることは十分に可能に思えるし)、この文章を書くには別にハードウェア的な要求はないから、川合というソフトがこの文章というソフトを生んだといっていいと思う(たとえば顔がよくないと思いつかないような文章とかだったら、結論は違うわけだ)。この観点では、ソフトウェアこそ川合の本質であり主体である。だからハードウェア的な子孫をいくら残してもほとんど意味がない。これはベートーベンの曲のCDを複製するべきか、それともCDプレイヤーを複製するべきか、という話にたとえられるだろう。
- 川合というソフトの寿命は、僕の考え方ががらっと変われば尽きてしまう。でも他の人に受け継いでもらうことができれば、ハードが死んでも続行できる。たとえば文章の形で記録されて、1万年後に再発見されて読まれて、そして感銘を受けてくれれば、そこで再開するということだってありうるわけだ。まるで冬眠して目覚めたみたいに。
- 僕は前から毎日まめにブログを書く人とかホームページを更新している人は、えらいなあ、すごいなあ、と思う反面、そんなことをして何が面白いのかなあ、個人情報がもれる危険を増やしているだけなんじゃないかと思っていた。・・・しかし、もしかしたらブログやホームページを作って公開しようという衝動は、ソフトウェアとしては(=行動様式としては)非常に理にかなっているのかもしれない。なにしろ公開しなければソフトウェア的な子孫は残せない(もちろん公開しても残るかどうかはわからないけど)。だから何でも差し支えない範囲で公開したいという衝動を持つことは、ソフトウェアの子孫を作るという意味では有利だ。
- というか、ソフトウェア的な子孫を残したいと思うことが、結果的にオリンピックで世界記録保持者になりたいとか、ノーベル賞を取りたいとか、そういうことにつながっているのだろうか。そうだとしたら、なるほどこれは進化の上でうまい仕組みになっているなあ。
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- ちなみに僕のようにDNA以外にも行動様式などを進化の対象として考えよう、という人はかなり以前からいたみたいだ。その人たちはソフトウェアのことをミームというらしい。
- DNAレベルでの覇者の例を追加
こめんと欄