言ってもダメなとき

  • (2007.09.16)

(1)

  • 今日のサンデープロジェクトという番組で、自由民主党の総裁選挙の話題があり、麻生議員と福田議員がインタビューに答えていました。その場の質問で、テロ特別措置法の延長が衆議院で可決、参議院で否決となり、さらに最終的に民意で不支持に終わった場合、それでも延長するように努力するか、という質問がありました。
  • 二人の結論は同じで、丁寧な説明をしても民意を得られない、そんな場合でも、「国益のために」延長のために努力する、ということでした。
  • 僕としては、とりあえずテロ特措法をどうするかべきかはともかくとして(まだ自分の中で確信がもてない)、このように「言ってもダメなとき」にどうするべきなのか、一般論を考えてみることにしました。

(2)

  • 結論から書くと、言ってもダメなら好きにやらせるべき、というのが僕の考えです。平均的な国民よりも自分のほうが正しいとうぬぼれるのは次期首相の自由だと思いますが、たとえ自分が正しいと思っても、民意を無視するべきではないと思います。これは増税や格差の問題の解決についても同じだと思います。
  • 仮に何らかの方法で(たとえばそれぞれの選択をした未来を見てきたとか)絶対に間違わないとしても、民意によらず勝手に政策を推し進めるのは非常に危険です。国民は政治に関心をもてなくなります。だって考えても一切反映されないのですから。そんな状況下では考えるほうがバカです。ほかの事を考えていたほうがましです。そうなると、せいぜい選挙のときだけ考えるような国民にしかなりません。そして仮に政策が自分の気に入らない結果を招いても、そのときの与党のせいにするだけです。逆の選択をしたらもっとひどかった、なんていっても信じません。・・・こんな国にすることが「国益」なのでしょうか。10年後、20年後には国益かもしれないけど、100年後、200年後は真っ暗な気がします。
  • 結局分からせないといけないのです。政治家が、格差の是正よりも改革の推進のほうが重要だと思ったとしましょう(僕もこれには賛成なんだけど)。でも、国民が格差の是正のほうを望んでいるのなら、そして今改革しないとどんな結果になるのかを丁寧に説明しても分かってもらえないのなら、政治家は国民と一緒に失敗するべきです。失敗すれば、国民だって分かります。それでも分からなければ一度滅んでしまえばいいんです。一度失敗してみせるというのはすごく遠回りな説得方法ですが、しかしこれをやらなければ結局改革半ばにして民意に足を引っ張られて、何もかも中途半端になるだけです。
  • 国は国民のものであって政治家のものではありません。首相が民意に押し切られることで、「失敗した歴代総理大臣」にリストアップされるかもしれません。でもそれがなんだというのでしょうか。首相の面子や誇りを守って国を堕落させるのがいいのか、首相が非難に甘んじて国民を育てるほうがいいのか、こんなのは悩む必要すらない選択だと思います。これで悩むようなら首相の器じゃないと思います。
  • 民意を問う直前まで持論を展開し説得を続けてください。そしてそれでも民意が得られなければ、「不本意だけど民意に従い、その方向で全力を尽くします」くらいは言ってほしいものです。まあ民意に沿った首相にその座を譲るのが一番いいのですが。

(3)

  • 僕はごくごくたまに友人が愚行をしようとしているような気がして、「そんなことはしないほうがいい」or「もうやめたほうがいい」と説得することがあります。問われればもちろん理由もいいます。しかし相手が自分の考えを曲げないときや、それでもやろうとするときは、それ以上の干渉はしません。どんなに自分の結論に確信があっても、どんなにひどい結末を予想できても、それを言っても分からないのなら、それまでだと思っています。僕だって間違っているかもしれないし、友人は僕には言わないだけでさらにそれを上回る何かを知っているのかもしれません。
  • 僕は「他人があえて失敗したいというのなら、それが本人に回復不能なダメージを与えるものでは無い限り、そしてさらに他人に多大な迷惑を掛ける懸念がない限り、強引に引き止める必要は無い」と思っています。他人が失敗する機会を奪うべきではありません。失敗から学ぶことだってあるのですから、つまり失敗を奪うというのは学習機会を奪うのと同じです。そしてさらにそれが失敗しないで成功するのだとしたら、成功の機会すら奪うかもしれないんです。
  • また僕はそうやって失敗した人を助けません。どんなに反省しても助けてはいけないと思っています。自分のやったことに自分で責任を取り、自分で復帰を果たさなければいけません。自分の選択がいかに高くついたか、そうしないと分からないじゃないですか。事前に他人の忠告を聞いて考える機会があったのに、それを活用できなかった代償を知らなければいけないのです。言っても分からなかったのだから、体験しないといけないのです。安易に助けたらこれまた学習機会を奪うことになるのです。・・・もし友人が僕に助けを求めてきたら、僕はきっと泣いて断るでしょう(しかし全く協力できないわけではなく、一肌脱いで"貸し"にすることは悪くないと思っている。もちろんこの貸しは(他の貸しとは異なり)必ず返してもらわなければいけないが)。

(4)

  • それなのに、世間の人の多くは、自分が正しいと分かっているのに相手を止めないなんて、人間としておかしい、非情すぎる、本当の友情ではない、思いやりがない、というのが普通っぽいです(ドラマなんかだと、「わざわざ忠告しに行ったのに、説得に失敗してノコノコと帰ってきて、あいつが失敗するに任せるだと?バカ、おまえそれでも本当にあいつの友達なのか!」とかいって顔をひっぱたくのが「いい人」なんでしょう?)。こんな世の中だから、サンデープロジェクトでの両氏も恥ずかしげもなくあんなことを言えるのでしょう。
  • まったく、僕には住みにくい世の中です。先が思いやられます。自分のやっていることが過保護になっていて、結局害をなしている"かもしれない"と一般的な人たちはみじんも思わないんですかねえ。単純ですねえ。

こめんと欄


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Last-modified: 2007-09-16 (日) 15:17:45 (5397d)