何のための教育か?

  • (by K, 2008.05.25)

(0)

  • たいぶ前にニュースで学校が補習をするようになったとかいっていた。ここ数年そういう傾向はあったけど、その方向にどんどん進んでいるみたいだ。基本的にはいいことなんだろうとは思う。勉強できるようになりたいのにできなくて悩んでいる生徒にとってはいいことだ。

(1)

  • しかし僕は心配もする。こうして周囲の大人たちが「教えてあげる」という姿勢を強くすればするほど、生徒たちは「自分から何をするべきか考えなくなる」のではないだろうか。自分は大事な大事な「お客様」で、だからがんばるなんてばからしい。がんばってこっちが歩み寄らなくても向こうから歩み寄ってくる。苦労や努力なんかしなくても周囲がやってくれる。周囲の人があれやれこれやれというからそれに従っていればいい。逆らったりするとかえって怒られる。・・・これじゃあ他人任せで思い通りならないと文句だけを言って自分たちでは何もしないような人間が「最も適応できている」ことになりはしないか。
  • 理解できる・できない以前に、そもそも学習内容はどうだろう。僕たちが実社会に出て、学校の勉強内容そのもので役に立ったものが一体いくつあるだろう(大学に入るために役に立ったとか就職試験のために役に立ったなどではなく)。たとえば小学校の理科で電池のつなぎ方を習っておいたから助かった、とか。
  • 話が分かりにくいと思うので、たとえばスポーツのクラブなどと比較しよう。サッカークラブでも野球クラブでもいい。きっと基礎練習での走りこみや、パスの練習、投げる練習、打つ練習などがあるだろう。これらは生徒でも「何のためにやるのか」が実に明確である。だから補習なんかしなくてもやる生徒はやるし、やらない生徒(サッカーや野球の上達をあきらめた生徒)はやらない。
  • これに対して小学校や中学校の教育内容はどうだろう。「義務教育」などといいながら、生徒の視点から見てこんなのなんの役に立つの?と思うようなものが多くはないだろうか。漢字の読み書きにしても、自分の読みたい本やマンガに時々出てくるような漢字なら覚える気も出てくるだろうが、教科書に出てきても読みたいと思うだろうか。教科書なんてどうせつまらないし、読む気もないから、読めなくていい。
  • 理科の電池の話にしたって、豆電球なんて理科の授業で初めて見たという児童・生徒もいるだろう。そんなものどうでもいいと思ったらそれで終わりだ。まして自分の親の電気の知識が散々だったりすると、「なんだ分からなくても問題なく生きていけるんだ」と思ってしまい(しかもそれは事実である)、苦労してまで勉強する気は起きないだろう。
  • そしてそんなくだらない(ようにみえる)知識を詰め込むのが学校で、しかも役に立たないことを覚えたかどうかテストされる。理解度が低いとしかられたりする。興味がある人だけが覚えればいいというわけじゃない。ひどい話だ。こんな仕組みに適用した人間がはたして「まとも」になるとどうして期待できるだろう。・・・ひょっとしたら、こんな義務教育なら全くないほうがいいのかもしれない。

(2)

  • 僕の場合、いくつかの教科については勉強そのものが楽しかったので、それらについては学習することは苦ではなかった。だから役に立たなくてもかまわない。でも、それとは無関係に純粋に役に立ったことを役に立っていると思う順序で挙げてみよう(収入に結びついているかどうか、などが基準)。自主的に本を読んで学んだことはのぞく。
    • 算数と数学(四則演算や方程式やべき乗などの代数的なことだけ、三角形の合同や相似は役に立ってない気がする)
    • (中学までの)漢字の読み書き、日本語の文法など
    • 英語
  • 他のことについては自主的に勉強したことばかりで、学校教育が役に立っているという気はしない。もちろん趣味としては楽しめるものがあったが、それは僕にとっては良かっただけで、半ば強制されたらきっと腹立たしく感じるだろう。それに上記のことにしたって、僕には役立ったけど、他の分野に進んだ人はどうだろう。時間の浪費くらいにしか思えない場合もあるのではないだろうか。
  • もちろん抽象的に考える力などを養うための題材として数学などがあるという人はいるだろう。しかしもしそうだとしたら、本当にこれが最善の教材なのか。たとえばプログラマー志望の生徒にとっては、抽象的に考える力はソートアルゴリズムや検索アルゴリズムなどから学ぶほうが一石二鳥なのではないか。弁護士志望の生徒であれば、法の論理体系を題材にするほうがいいのではないか。

(3)

  • また別の問題もある。生徒・児童のなかには、一度か二度くらい説明されればすぐに分かる者がいるだろう。逆に三度も四度も説明しないと分からないものもいるだろう。どちらが好ましいだろうか、もちろん一度で分かるほうだ。一度で分かる者は何らかのメリットがあるべきだ。そうでなければ、何度も聞かねばならない生徒は一度で分かるようになろうと努力しないし、淘汰もされない。もちろん過剰にいじめろなんて思わないけど、どんなに理解力がなくても全くペナルティを感じることがないというのは、緩やかな衰退しかない気がする。淘汰さえされればいいので下位1%だけにペナルティがあって、それ以上は完全に平等でもいい。

(4) 2008.07.13追記

  • 学校教育のおかげかどうか分からないけど、僕が自分の持っている学力(?)で最も重要だと思うのは、自分で問題を解いたときに「あ、これは正しい!」と手ごたえを感じることである。検算する能力といってもいいが、しかしこの能力は数字の問題に限らない。
  • この能力は大学で研究をしたり、OSASKの方針を考えたり、身近なテーマや社会問題について「これっておかしいよな、こうするべきだよな」って考えたときなどに、絶大に役立つ。どれだけ考えてもしっくりこないときは、他人に助言を求めればいい。それでしっくりくればそれを信じればいい。自分だけで考えて手ごたえがあれば、もう誰の意見も聞く必要はない。だって正しいんだから。
  • もちろん正しいと確信していたのに、結局間違っていることもたまにはある。そういうときは間違いを認めて修正するしかない。・・・しかし、ほとんどの場合は確かに正しいし、そう思うからこそ迷いなく前進できるので、実にうまくいく。たいてい間違ったことをしているとなかなかうまくいかないものだが、僕の場合、正しいのでうまくいく。というか、正しいと確信していたのにうまくいかないときだけ、間違いかもしれないと思えばいい。
  • ちなみに自分の解にいつも自信があるわけじゃない。ほとんどは、そうかもしれないし、違うかもしれない、という程度でしかない。でもたまに、これだ、これに違いない!ってのがあって、それをやろうという気になれば、迷いなくやるだけである。
  • どうも世間の多くの人は、こういうのがないらしい。いつも不安と戦っていたり、明らかに間違っていることを必死にやっていたりする。・・・となると、やっぱりこれは学校では教えないことなのかな。
  • 学校で練習問題を解いたときに、すぐに合っているかどうか答え合わせしないで、自分がその解にどれほど自信を持っているか考えたらいいだけだと思うんだけどな。そのときに、「いやこれは絶対これだ、だってよく覚えているもん」とかいうのは最悪で、もし教科書や新聞の記述にミスがあったらどうするんだ。そうじゃなくて、たとえば他の知識と矛盾がないから自信を持つべきなのだ。もちろん今までの知識がすべて記述ミスかもしれないけど、その確率はかなり低い。

  • 類似の能力としては、自分およびみんながAだと言ったときに、本当にそうだろうかと疑って確かめてみようとすることだろうか。Bかもしれない可能性は本当にないのか。

こめんと欄


コメントお名前NameLink

リロード   新規 編集 差分 添付   トップ 一覧 検索 最終更新 バックアップ   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2008-07-13 (日) 19:32:45 (5099d)