後付の理由に振り回されてしまうのは哀れだ
(0)
- 「男性は女性とは違って子供を産めないし育てられない(教育は出来るけど、授乳できないという意味合いだと思われる)。だから男性はプライドが大事だ。本来意味のないものに意味を見出すしかないのだ」みたいなことを言っている人がいた。
- この内容そのものは別にどうだっていい。でもこの話の流れは素直じゃない気がした。
(1)
- この人の出発点はどこなのだろうかと気になる。仮に「自分はプライドが大事だ」と気付いたところからだとしよう。そしてその上で、「なぜそんなにプライドが大事だと思ったんだろう」と思ったとしよう。そうして後付で、(0)のような根拠に思い当たった。
- この根拠がこの人にとってプライド以上にしっくりくるのなら、(0)のような話の流れでかまわないが、それなら何もプライドでなくてもいい気がする。なぜ医学の道に進まない?小児科の医師にでもなれば、普通の女性よりもよっぽど「子供にとって重要な存在」になれるのに。それをプライドに逃げるなんて、ただの逃避だ。僕にはそう思える。
- 結局、この人はプライドが大事なんだ。そしてその理由は後から考えたものなんだ(そう仮定して話を始めたから当然なんだけど)。それなら、さももっともらしい理由を最初に言ってみたりしないで、ストレートに「男性はプライドが大事だ」といえないのだろう。なぜ理由を付けたがるのだろう。そんなものを言えば言うほど、本来の自分の感覚が相手に伝わりにくくなるだけなのに。つまり誤解されやすくなっているだけなのだ。
- 世の中には自分のやることには何でも理由らしいものがないと落ち着かない人がいる。そんなのって僕からすればこっけいだ。なんだってやりたいからするんだ。もちろん理由をさかのぼれることはある。でも「なぜ?」は永遠に続く。(0)の例だと子供を産み育てることはこの上なくいいことであるという暗黙の仮定があるが、それもなぜと問えば悩ましい。だからどこかで止めなきゃならない。・・・そのストップが10個の「なぜ」の先であろうと、1個目の「なぜ」でいきなりだろうと、一体何の違いがあるだろう。結局あいまいな起点に基づいていることに違いはないのだ。そうであるならば、無理にしっくりこない理由をでっち上げることに何の意味があるだろう。
(2)
- もちろん理由を探ってみることそのものはいいことだ。その結果、自分が本当は何をしたいと思っていたのか分かることは多い。でも、(0)の例のように、「自分が本当は何をしたいと思っていたのか」がかえってわからなくなるようなものは有害でしかない。そういうウソな後付理由を、勇気を持って捨てられるかどうかが、その人の器だと僕は思う。
こめんと欄
|