作者の意図か、社会的な価値か

  • (by K, 2008.07.17)

(0)

  • よく分からない抽象画を見て思ったこと。

(1)

  • 何か作品を作ったとしよう。作品とは、文章でも絵画でも音楽でもソフトウェアでもなんでもいい。
  • それを作るときに、何か伝えたいこと訴えたいことを事前に決めているだろうか。それは最後まで変わらないだろうか。それはうまく表現できているだろうか。そして、表現したいことというのは、無ければいけないものなのか、それとも無くてもいいものなのか。
  • 仮に表現したいものがあった場合、しかしそれが相手に伝わらない場合がある。全く理解されない場合もあるし、誤解される場合もある。全然違うところに価値を見出されることもある。
  • 僕も一応本を一冊書いた経験があるわけだけど、著者というものは、意図しない意外な感想を聞くことがある。そしてそのとき、ほとんどの著者は(僕も含めて)、なるほど、でも感じ方はみんな違っていいし読者の自由なのだから、それでいいんです、みたいな事を言う。僕だって言う。・・・これでいい気がするけど、でもこれじゃいけない気もする。

(2)

  • 作品を作るにあたって、大きく2種類の目的があると思う。何かを伝えるために作るのか、それとも何か価値のあるものを作るのか。たとえば「明日の天気予報は晴れです」という文章は、明らかに何かを伝えるために作られている。これを読んで、女心(男心)と秋の空だなあ、という感想を持ってもいいだろうけど、とにかく明日の天気について分かってもらわないと、著者の意図としてはきっと不満だろう。
  • 何か価値あるものを作るという場合、それは受け取り手が高い評価をしてくれればそれでいい。なんだかわからないけど、どうしても心に残って惹きつけられる、とかでもいい。
  • たとえば平和の尊さを訴えようとして、ハトがたくさん飛び立つ絵を描いたとしよう。しかしその絵は「何がいいたいのか分からない」とすべての人にそっぽを向かれ、ある富豪が「でもこのハトはかわいいので気にいった。100万円で買おう」と言ったとしよう。これはどうなのだろう。何かを伝えるために作ったのに結局何も伝わらなかった。だからその意味では失敗である。しかしこれに100万円の価値を感じる人はいたのだから、価値あるものを作るという意味では成功である。

(3)

  • 価値あるものを作るという場合なら、そもそも表現したいものが無くてもかまわない。他人にこれは価値があると思わせることが出来さえすればいいのだ。もちろん何かを訴えようとしてもいいが、それは価値をさらにあげるための飾りであって、本来の目的からすればどうでもいいことだ。だから違う解釈をされても全然かまわない。自分の表現したいことを相手に強いて価値を下げるなんてありえない。
  • しかし何かを伝えることが目的ならそうはいかない。商品につける値札も作品と言えなくは無いと思うんだけど、500円のものに500円の値札をつけて、これは500円で販売していると「表現して」いるのだ。それなのに、それが伝わらずに、違う値段に誤解されたり、増税反対など意図しない訴えを勝手に感じられて、それに文句を言われても困る。数学の証明文もこの手の作品だ。

  • とまあそう考えると、僕が自分の本の感想について寛容なのは、実は「何かを伝えよう」という意識が弱いことの表れなのかもしれない。それでよかったのだろうか。

(4)

  • 僕は「30日でできる!OS自作入門」を単なる読み物というか、娯楽品として書いた気がする。論文などとしてではなく。文章の端々に熱い主張はあるけれど、それも賛成してくれという意味ではなくて、賛成でも反対でもいいから笑ってくれればいいんだ。
  • OSASKというソフトウェアも同じだと思う。○○のために使ってくれ、ってわけじゃない。だから違う目的で使われても基本的には問題はない。でも僕が嫌いなことのために使われるのは嫌だから、それ以外のことであればなんでもいい。

  • でも伝えたいことが無いとか、あっても「伝わらなくてもいい」なんていう態度は、本当にいいのだろうか。そんなことで本当にいい作品は出来るのだろうか。今の僕にはそれがよく分からない。僕が読者の立場で、著者が堂々と「これは別に何も伝わらなくてもいい本なんです、この本で伝えようとしていることはあるけれど、でもその程度の思いでしかないんです」とか言われたら、なんだかすごく軽い意見に見えないだろうか。一生懸命に読んで損したとか思わないだろうか。・・・だから著者のこんな態度は読者に対して失礼のような気がする。・・・うーむー。

(5)

  • どうせ伝わらないなら、最初から伝えたいことなんて無いほうがいいんじゃないのか?という考え方も可能かもしれない。そのほうが解釈はいろいろなんじゃないのか。解釈の幅が広ければ広いほどいいというのなら、たとえばただの真っ白とか真っ黒とか、鏡とか、透明なガラス板のように、何も自身では表現しないものこそ最高になったりしないのか、だってそれならそれこそ何とでも解釈してもらえそうだ。でもそういうものに価値を感じる人はまずいない気がする。ということは、解釈の幅が無限に広ければいいというわけではなさそうだ。
    • これを書いているときに、すべてのことに役立つものは、結局どの役にも立たないものである、というのを思い出した。
  • そもそも人は何に価値を感じるのだろう。
  • 僕のように何かを伝えようという意識が相対的に弱い著者は「表現者」と呼ばれるべきではないのかもしれない。だって表現に異なる解釈を与えられても異議を唱えないのだから。伝えたいことが伝えられないような表現者が、表現者としてどれほどの価値だというのか。せいぜい単なる生産者だろう。

こめんと欄


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Last-modified: 2008-07-17 (木) 02:54:46 (5096d)