平成の突破力(?) の番組を見て

  • (by K, 2008.11.26)

(1)

  • アメリカがサブプライムローンでこけたら日本まで大不況になった。これがくやしい。こんなふうにならない日本になりたい。どうしたらいいか。
    • 簡単だ。アメリカ人からの売り上げを当てにしなければいい。最初から当てにしてなければ、向こうが不況になって売り上げが落ちても、自分たちは少々ボーナスが減る程度で関係ない。
    • なんというか、なんだか知らないけど次々と買ってくれて、だからお得意様にして、きっと来月も買ってくれる、来年も買ってくれるだろうと、生産ライン増やして、それで目論見が外れたら、そりゃあ残るのはライン増設のためにした借金や、雇った社員の給与の支払いだけだ。買っている相手がどうしてそんなに貪欲に買えているのか疑いもせず、それをあてにしたからいけない。相手がカードローンで限度額知らずな買い物をしていただけだと分かれば、これは長くは続かないだろうと思うはずだ。
    • だから日本でも、堅実にやっていた人は被害を受けていないと思う。日本の景気がアメリカの景気を利用しただけの他力本願的なものだとわかっていた人なら、日本がやがてアメリカと共に不況に突入するのは見えているから、その兆候が出たときに真っ先に日経平均先物を売って防衛したはずなのだ。・・・そこまで積極的にできないにせよ、せいぜい積極的な投資は控えるとか、そういう防衛方法だってあっただろう。
    • もちろんこれは全部今だからいえる後知恵であって、僕だって前もって分かっていたわけじゃない(だから日経平均先物なんて何もしてないし)。でも、他の人たちは、くやしいだの、どうにかしてくれだのというだけなのに対し、僕は、こういう理由であのときこうしていればよかったのだと、筋の通った説明ができているのだ。

(2)

  • 数学は間違っているかもしれない。
    • それはおかしい。おそらく数学に間違いはない。数学は「現実を無視し」、こういう性質を持った数字を1としよう、その1に1を加算したら2にしようと「定義」しているに過ぎない。そうやって、そういう少ない「公理」から出発して、矛盾なく証明できることだけを使ってどこまでいけるか、そういうことをするのが本来の数学だ。その1や2が「物の個数」とか「物の量」や「程度の強弱」の表現に利用できると勝手に想定しているのが物理学や化学などであって、そこでは数学が予想する結果と実験結果が合わないことがあるかもしれない。しかしそれは数学が間違っているのではなく、応用した分野に選んだ公理系が不適切だったというだけであって、数学そのものの問題ではない。数学では矛盾を招きかねないような操作を証明のために利用することを禁止していて(たとえば等式の両辺を0で割るとか)、それを守る限りにおいて自己矛盾に陥る心配はないと僕は思っている。
    • たとえば数学ではx*x+1=0の方程式に解を与えるためにあえて虚数という数値を導入したが、これは虚数という数値が物の個数や程度の強弱として意味を持つ数値であるということを意味しない。単に、そういう概念が存在するとして数字(体)を拡張しても、それまでの演算法則などを維持できるし、さまざまな公式の対称性が改善する(つまり二次方程式には常に2つの解があると言えるようになるなど・・・重解を除けば)というだけのことだ。それなのに、虚数が何か個数においても意味があるかのように錯覚し、そんな個数がありうるなどと主張する数学はおかしいといわれても、それは応用範囲を超えて勝手に適用して自滅しているだけだよ、としかいいようがない。
    • それでももちろん不注意による間違いくらいならあるかもしれない。誰かが証明のときに書き間違えて、それを他の誰も気付かないままになっていることはあるかもしれない(めったにないことだけど)。しかしこれは、「数学が間違っているかもしれない」という含みで指摘したい想定とは明らかにずれている気がする。
    • そもそも数学は非現実的なものだ。虚数なんていう例を出すまでもない。数学で直線といったら、長さは無限で太さは0。長さが無限な直線なんか実際にあるだろうか。もちろんない(宇宙に収まらない)。あくまでも、そういう存在がもしあったとしたら、それはこういう性質を持つだろうというのが数学なのだ。太さ0だって無理だ。平面も厚み0だけど、もしそんな板が現実にあるというのなら是非一度見てみたい。数学で3といったら、それは誤差の全くない完璧な3なのだが、もしその「3」センチの糸をはさみで切り出せるという人がいたら是非お目にかかりたい。
    • 数学は結局は知的なゲームみたいなものだ。こういうルールのゲームがあったとしたら、そのときの必勝法はこれだ、というのが数学である。そのルールがどんなに現実のゲームに類似していたとしても、その現実の問題の中でその必勝法が常に有効かどうかは分からない。というのは、現実のルールがその数学のルールと完全に同じで付け足しや例外が絶対にないとはいえないからである。物理学などは、もし今日も昨日と同じルールで石が落ちるとしたら、10秒後の石の位置はここだといっているだけであって、ルールが少しでも変わるのなら、もしくは現実の観察不足などでルールを誤解していたのなら、その予想は適切なものではないだろう(ニュートン力学から相対論や量子力学への変更はまさにこのルールの変更であって、数学の落ち度ではない)。
    • 数学を漠然と非難する人、もしかしたら間違っているんじゃないかとか言う人の多くは、数学がこういうものだと分かって言っているとは思えない。相手のことをよく調べもしないで、「この世に絶対はない」という信念だけを前提に、何でもかんでも「間違っているかもしれない」といわなければ気がすまないのだろう。僕に言わせれば、数学は人間という不完全な生き物が手にできる中では最も間違う可能性が低くて、かつ実りの大きいもので、その代償として現実の問題を解くために役立つのかどうかを保証できなくなった学問なのだ。「AならばB、BならばCのとき、AならばC」のような疑いようのないものだけで作ってみたのが数学なのだから、そういうことを疑うというのなら、そもそもいい加減な自然言語だけで屁理屈をこねるという行為のほうがよほど疑わしい。つまり数学よりも、数学は間違っているのではないかという論理のほうが疑わしい。
    • 確かに「この世に絶対はない」。しかし数学はこの世のものではないのだ。そしてもし絶対というものがあるとしたら、つまり無矛盾というものがあるとしたら、そしてそれが人間にも扱いうるものなのであれば、それはきっとこういうものに違いない、というのが数学なのだ。どんなに正しそうに見えても、どんなに応用が利きそうなものでも、証明できていないものは安易には使わないというのが数学なのだ(使うときは、未証明の○○の定理が真であれば、以下のことが成り立つ、という控えめな言い方しかしない)。
    • 自分の想定を超えているかもしれないと思うこともなしに、相手の程度を自分と同程度だと安易に決め付ける、そんな態度は最低である。それで正しい主張ができるわけがない。どんなことだろうと批判するなら、少なくとも基礎は勉強しておくべきだと思う。そうでないとただのたわごとにしかならない。つまり「この世に絶対はない」という主張すら絶対ではなかったのだ、数学を前にしては。
    • ただしこれには例外があって、たとえば数学に矛盾があるといつでも証明できるのであれば、それ以上相手のことを知る必要はもちろんない。堂々と証明して見せればいい。

(3)

  • みんなが幸せに安心して生きられる世の中にしたい。そういう世の中であるべきだ。
    • これは番組中で言っていたかどうかは分からないけど、なんかそんなようなことを聞いた気がして、それで思ったことがあったので書いておく。
    • まず僕はそういう世の中であってはいけないと強く思う。みんなが幸せに安心してっていうのは、「何も努力しなくても」というのが暗に含まれていると思うのだ。「相応の責務を果たしさえすれば」という前提なら、うん、僕も全面的に賛成できる。
    • 「相応の責務」というのは、ルールどおりに税金を払うとか、犯罪をしないとか、そういうことを指す。理由は何であれ(つまり病気などであっても)、ルールが求めている分よりも少なくしか働かないとか、働いても脱税するとかであれば、それは他人がその人の生活の安定を保証すべきではない。もちろん殺されるというわけじゃない。その人は行政などの支援は受けずに、自力で生きていくべきだ(頼れる知り合いがいればその人に頼ってもいい、しかし見放されても怒ってはいけない)。それで贅沢に暮らしてもいいし、のたれ死んでもいい。それは自由だ。
    • だってこれはしょうがない。みんな働かなかったらどうするんだ。みんな病気になったらどうするんだ。どんな正当な理由であれ、税収がなければ、助けたくても助けられないじゃないか。国債を発行したって、誰もその国債を買ってくれなければそれまでなんだぞ。国民の多くが病気で貧しくて、この国の将来が危ぶまれるときに、そんな国にお金を貸してあげようなんて人がどこにいるだろう。貸したって返ってこないのは目に見えている。
    • 僕がすごく解(げ)せないのは、他の番組でこういう発言を聞いたのも影響している。海外の失業保険生活者がインタビューに答えていた。「この国では失業申請者が増えすぎて一人当たりの支給額が減らされることになりましたが、それについてどう思いますか?」「みんなが苦しいときなので仕方ないです」・・・なんだこれは。つまりみんなが苦しければ我慢できるようなことなのか?この場合は失業保険なのでまだいいんだけど(つまり相応の掛け金を負担していたから)、これが生活保護者だったらどうだろう。もちろん生活保護者に聞いたわけじゃないけど、でも同じような受け答えも十分にありうる気がしないだろうか。みんなが苦しければ我慢できるのか?みんなが豊かだともっとくれとか言うのか?これはおかしい。それじゃただのタカリじゃないか。恥を知るべきだと思うのだ。不況だろうと何だろうと、本当にぎりぎり必要な額だけをもらおうとは思えないのか。足りなければあきらめるべきじゃない。しかし景気がよくなったからと言ってずにのるべきでもない。そんな人には一円だって税金を使ってほしくないというのが僕の意見だ。
    • 本来あるべき姿は、そんなこといわないで、「とにかく○○円ないと生きていけないんです。これよりも安く暮らす方法をもし知っていたら是非教えてください。どうかお願いします。4月までもらえたら後は自分で何とかしますから、どうかお願いです。」とかだと思うのだ。なるほどそれなら仕方ないと思うし、できれば助けてあげたいとも思う。・・・これに対して今の日本みたいに、なんか自分たちにはお金をもらう正当な権利があるんだというのは納得がいかない(註:今はもちろん正当な権利がある。だから堂々ともらっていい。僕が問題にしているのは生活保護者の態度ではなく、現在の生活保護者にお金をもらう権利を保障してしまった法律のほうである)。
    • ちなみに僕は全員が同じだけの負担をした場合に、常に全員が必ず生き残ってしまうような世の中は間違っていると思う。食べ物も土地も何もかもが十分あってあり余っているうちはいいが、その状態は永久に続くべきではなく、むしろ多少の淘汰圧力がかかっている状態こそ健全である。つまり理想としては(=定常状態としては)たとえ誰もサボらずにいたとしても、下位の何人かは脱落しなければいけないのだ。それは僕たちが生命として現状を維持する(もしくはゆっくりとでも進化していく)ためには避けられないことなのだ。・・・人間に遺伝子組み換えを許容するのであれば、この限りではないが。

こめんと欄


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Last-modified: 2008-11-26 (水) 16:10:03 (4963d)