* 世間への逆恨み問題
 -(by [[K]], 2008.08.19)
 *** (0)
 -無差別殺人などをした人が動機として自供する中に、世間が自分に対して不当な扱いをした、だから世間はみんな敵だ、仕返ししてやるんだ、みたいなのがある(仕返しというほど積極的でなくても、死んでもいい、殺してもいいんだ、みたいなことを言う場合もある)。
 -このように世界中の人間を、なぜか「自分」と「他人全部という集合」の2つだけに分けて考えてしまう傾向を持つ人は確かにいる。犯罪者じゃなくてもいる。これについて考えてみようと思う。
 *** (1)
 -まず最初にはっきりといっておきたいのは、このような考え方は合理性もないし、不利・不幸な結果に終わることが多いということである。仮に「他人」がこの世に10人しかいないとして、そのうちの5人が自分を冷遇したとしても、だからといって残りの5人もそうだとはいえない(そうでないともいえないが)。もしかしたら好意的な人がいるかもしれない。その人を間違って殺してしまったらどうするんだ。大損である。しかも好意的な人は過半数以下なのだから、貴重な存在といってもいいだろう。それを自ら失わせるなんて、どう考えても合理的ではない。
 -それに仮に10人が全員冷遇したとしても、その程度には差異があるはずだ。なんでも同罪だとばかりに殺してしまうのはいかがなものかと思う。ここはやはり、一番ひどく冷遇した人を殺すべきだ。そうすればその結果を恐れて他の人は考えを改めるかもしれないし、遺伝的にもその一番ひどい人の子孫はもう出てこないわけだから、遠い将来には性格の悪い人が少なくなるだろう(まあその日を生きて迎えることは出来ないだろうけど)。
 -他人というくくりでまとめられるのは、合理的に考えればどう考えてもおかしい。「他人は自分に優しくしてくれなかった、だから罰を受けろ」というのは、要するに責任を取って償えということなのだが、自分の責任の範囲を明らかに超えている。・・・隣の町の全然知らない人のやることに僕は責任を取らなければいけないのか。それはつまり、僕が全知全能で、すべての人のやることなすことを完全に把握し、不当なことがあればそれを指摘して詫びさせなければいけないのか。僕はいつからそんなスーパーマンになったのか。それともそんなことは誰にでも出来て当然だというのか。じゃあ(犯罪者である)あんたはできるのか。・・・そうとも僕には出来ない。全然出来ない。あんたはできるというのならあんたこそ責任を取るべきなんじゃないのか?
 -昨日雨が降ったのも、昨年地震があったのも、全部お前にも責任があるといわれて納得できる人がどれだけいるだろう。そんなの僕には何も制御できないことだ。予防策も何もない。
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 -これとは逆の話もある。つまり他人に連続でよくしてもらったがために、すべていい人だと思い込んでかかることである。残念ながら悪い人というものは必ずいるし、仮にみんないい人であったとしても、その程度には差があって、すごくいい人から、少ししかよくない人までいるはずだ。これらを同一視してはいけない。それはすごくいい人に対して、すごくよくしたことは無意味だといっているようなものだ(だって少ししかよくない人でも同じなんだから)。
 -基本的に最初に平均程度の期待はしていいと思うが(状況別の平均のほうがいい)、それ以上の期待はするべきじゃないし、そこから期待を変えるのなら、もっといろいろ相手の態度を観察してからにするべきだ。
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 -ちなみに自分には力が無くて一番悪い人に罰を与えることが出来ない、という場合でも、できることはある。それは悪い人を罰するのではなく、一番いい人(一番マシな人)にごほうびをあげることである。これは生物界では一般的によく行われていることで、花粉を運ぶごほうびとして花の蜜をミツバチがもらうなんていうのはその典型である。殺すものに対してのみ罰を与えるのは、毒を持つ生物などがそれにあたる。
 -ちなみに自分には力が無くて一番悪い人に罰を与えることが出来ない、という場合でも、できることはある。それは悪い人を罰するのではなく、一番いい人(一番マシな人)にごほうびをあげることである。これは生物界では一般的によく行われていることで、花粉を運ぶごほうびとして花の蜜をミツバチがもらうなんていうのはその典型である。力によらず殺すものに対してのみ罰を与えることを実践している例もあり、毒を持つ生物などがそれにあたる。
 *** (2)
 -僕らはゴキブリや蚊を害虫として嫌っている。そして出てくると無差別に殺している(人が多い)。これは基本的にはあまりいい方法ではない。ゴキブリや蚊だって、もしかしたら(突然変異などで)無害なやつがいるかもしれない。それなのにそれを区別しないで殺すなんてよろしくない。有害なものだけを殺し、無害なやつが生き残って子孫を残せば、やがては無害なものばかりになるのに。
 -ただまあ、人の住むところに出てくる時点で十分に「有害」と考えるのも一理あるので、そういう一線を意識していればいいかもしれない。つまり森などの自然界に住む分には殺さないということを守るのだ。そうすれば、家で遭遇することはやがてはなくなるのかもしれない。
 -手洗い殺菌などではまさにそんな感じだ。人間には無害な菌がたくさん寄生しているらしい。これらは有害な菌と住処や食料の取り合いを通じて競争関係にある。だから消毒液ですべての菌を殺すよりは、悪い菌だけを殺して無害な菌をそのままにしておくほうが、有害な菌が入り込む余地を減らすので、好ましい結果になることが多い(虫歯菌とかでも確か同じ論理が適用可能だったはずで、無害な菌ばかりが口にある人は、それほど念入りに歯磨きしなくても、虫歯にならないそうである・・・うらやましい)。
 -現状では選択的かつ効率的に殺す方法がないので仕方ないのかもしれないが、現状のやり方は満足するべき方法ではないことを忘れずにいて、そしてやがては選択的に殺せるようになるのを目指してほしい。そうすればもっといい将来が待っているはずだ。
 * こめんと欄
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