2017年01月
2017年01月05日(木) #00 不可逆こそ鍵?
- 現在、世の中には情報があふれている。本当にそう思う。・・・いっぽうで、僕は貧乏性なので情報を失うことを非常に嫌っていて、できれば何でも記録しておきたいと思う(そんなことできないけれど)。
- なにか100万人分のデータがあったとして、この情報は果たしてすべて等しく重要だろうか?そんなことを時々考える。だいたいの分布が分かればいいんじゃないかと思う。それでよければもっと少ない情報にできるはずだ。
- しかしそうすると情報は失われる。元のデータから分布データを生成することはいつでもできるけど、分布データから個々の元データを復元することはまずできない。つまり不可逆だ。しかし元データがいくらあっても、ほとんど役には立たない。統計データがあれば、いろいろと議論や研究ができる。
- 山ほどのデータが与えられても、それを全部使おうなんて思わないほうがいい。無理に使おうとすれば、きっとろくな結果にならない。特徴的な部分を見いだしてそこだけ活用できればいいのだ。
- たとえば検索データベースを考えてみよう。「1億件のデータから何でも探せます」っていうのは素敵だけど、果たしてそれは「正解」なのか。1億件の中には、一度も検索しないデータも多く含まれているだろう。そんなのはデータベースに含まれていないほうがいいんじゃないか?そうすれば探すのはもっと早くなるじゃないか。
2017年01月10日(火) #00 不可逆計算と発熱
- CPUは計算すると発熱する。この発熱は減らせないのだろうか。情報処理というものは本質的に発熱が避けられないものなのか、それとも発熱は本来不要なものなのか。・・・という議論をどこかで見たことがある。
- もしCPUの演算が可逆的なら、おそらく発熱はない。・・・振り子の運動など、理想的な可逆運動の場合、運動は周期的に繰り返す必要があり、つまり発熱しない。だって発熱したらそのぶんエネルギーを失うわけで、そうしたら周期的には繰り返せない。
- CPUの演算は基本的に不可逆的である。処理が進むにつれて情報を失っている。だから可逆ではない。ということで、情報を失わないようにすれば発熱はなくなるという指摘がある。そうかもしれない。
- でも完全に可逆的だと周期的に同じことを繰り返すか、もしくは平衡になるしかなく、処理は「進まなく」なる気はする。となれば、処理を進ませるために発熱は必要なのかもしれない。ただ、今ほどたくさんの発熱が必要なのかといえば、それは疑問の余地が大いにある。
- 演算の不可逆性が、いろいろと重要そうな感じがする今日この頃。
2017年01月13日(金) #00 アマゾンのクレジットカード
- Amazonのクレジットカードを作った。ちょっと前から僕はプレミアム会員なので、ゴールドカードにすることも真剣に検討したけど、結局クラシックカードにした。
- だってさー、クラシックカードだと5,000円分のアマゾンポイントがもらえるから。カード還元率は2.0%になって少し下がるけど。
- 僕の計画としては、クラシックカードでまず入会ポイントをもらって、それでしばらくしたらゴールドにアップグレードすればいいかなーと。そしたら入会ポイントと還元率2.5%の両方が手に入るから。
- ちなみにプレミアム会員になったのは、合計2,000円にならなくても配達してもらえるからです。2,000円にするために他に何を買うか(まあたいていは消耗品)を考えるのが面倒になってきたので・・・。
2017年01月13日(金) #01 同じようなことを考える人はきっといるはずだ
- 僕は何かプログラムのアイデアを思いついた時に、「地球にはこんなにたくさんの人がいるんだから、同じようなことを考えている人はすでにいるはずだ」と思って、適当に探すんだけど、たいてい見つからない。どんぴしゃりじゃないにしても似たようなものがあれば、それを参考にしようかと思うんだけど、それすらない。しょうがないから自分で作る。
- 10年くらい前は、僕が思いついたものに似たものはすでにあるパターンがよくあったけど、最近はそういうのが全然ない気がする。どうしてなんだろう。もう探すだけ無駄だから探す気もなくなってきた・・・。僕はそんなにユニークになってしまったのだろうか・・・。
2017年01月13日(金) #02 いかに説明せずに済ませるか
- 分かりきったことを説明されると、なんだかうっとうしく感じることがある。この人は説明が下手だなーと感じる。そういうことが何度かあって、「人のふり見てわがふり直せ」で、自分の説明方法を見直すようになった。
- 最近は、説明をいかに簡単にするかを意識している。図を一枚入れれば文章がたくさん減らせるのなら、そうする。言わなくていいことは言わない。さらに厳密さも捨てる。たいていは近似でいい。
- たとえば鳥の説明をすることを考えよう。「鳥は空を飛ぶ動物」ということはできるが、これは例外がたくさんある。ペンギンは飛ばないけど鳥だ。ダチョウも飛ばない。もし厳密さにこだわれば、「鳥は空を飛ぶ動物だけど、飛ばない鳥もいる」という言い方になる。そのように言えば確かに言っている方は満足かもしれない。しかし聞いているほうは「そんなこと言ったら、どんな動物にも当てはまるじゃないか!」となって、意味が分からない。
- そうなるくらいなら、飛ぶ鳥だけを説明してしまったほうがどれだけわかりやすいか。空を飛ぶことは鳥の代表的な性質なんだ。それを語り手の自己満足のために(=厳密さの追求のために)分かりにくくしてしまっていいのだろうか。
- 鳥の60%以上が空を飛ぶのなら、「鳥は空を飛ぶ動物」と言い切ってしまえばいい。第一近似としてはこれで十分なはずだ。例外は例外であって、メインと同様の重要度で扱うべきではない。
- 馬は足の速い動物だ。例外はあるかもしれないが、そんなの気にしなくていい。そんなのを気にするから理解できないし、伝わらないのだ。
- おっと脱線した。とにかく説明は少ないほうがいい。分かりきったことはできるだけ言わないようにする。要点だけを説明する。
2017年01月23日(月) #00 誤解は誰の責任か
- 僕は勝手に誤解されて、その誤解を前提に散々に文句を言われたことがある。
- 僕は勝手に誤解しておいて、それで文句を言われたのだからたまらない。その人は自分のせいじゃない、誤解されるようなことを書いたお前が悪いと主張していた。それはあまりにも勝手な言い草だと思った。この問題の切り分けを考えよう。
- たとえば「Aはバカとは思えない」と書いてあった文章を、「Aはバカだとしか思えない」と誤読したとする。意味はまったく逆になる。この場合、誤読しやすい文章を書いたからいけない、とかいう主張は説得力を持つか。・・・僕は持たないと思う。書いてないことまで発言したことにして責任を取らされるのだとしたら、もう何もやっていられないではないか。読みにくい文章を書いたことは責めてもいいケースはあるかもしれないが、その場合でさえとにかく誤読したのは読み手の落ち度である。読み手がその誤解をもとに文句を言ったのなら謝るべきだ。
- 次に、伝聞しているうちに記述がおかしくなった場合はどうだろう。これは誤記して伝えた人が悪い。もとの書き手に罪はない。だから責められるべきは仲介者だ。また、読み手も伝聞をむやみにうのみにしたという罪はある。原文を確認しようと思えばできたかもしれないのに、それを怠った。
- 僕はそのように考えるのだけど、そう考えない人もいる。
- 誤解したら、「誤解は私のせいじゃない、私の他にも○○さんも誤解した。こんな状況では誤解するのが普通だし、誤解して当然だ」などと言いだして、結局自分には一切の非がなかったと言い出す。全員が誤解したのか?誤解しなかった人が一人でもいたら、じゃあなんでその人は誤解しなかったんだということになる。・・・結局、誤解するような浅はかな人がいっぱいいて、自分もそのうちの一人だったというだけなのではないか?自分が愚かなのは自分のせいじゃないのか?他人のせいにしていいのか?
- こういうタイプの人は、要するにどんな失敗をしても自分のせいだとは言わない。そしてうまくいったら何でも自分のおかげだという。要するにそういうことなんだろう。もちろん誰も取り合わない。みんなそんなに暇じゃない。
こめんと欄