何のための教育か?
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- たいぶ前にニュースで学校が補習をするようになったとかいっていた。ここ数年そういう傾向はあったけど、その方向にどんどん進んでいるみたいだ。基本的にはいいことなんだろうとは思う。勉強できるようになりたいのにできなくて悩んでいる生徒にとってはいいことだ。
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- しかし僕は心配もする。こうして周囲の大人たちが「教えてあげる」という姿勢を強くすればするほど、生徒たちは「自分から何をするべきか考えなくなる」のではないだろうか。自分は大事な大事な「お客様」で、だからがんばるなんてばからしい。がんばってこっちが歩み寄らなくても向こうから歩み寄ってくる。苦労や努力なんかしなくても周囲がやってくれる。周囲の人があれやれこれやれというからそれに従っていればいい。逆らったりするとかえって怒られる。・・・これじゃあ他人任せで思い通りならないと文句だけを言って自分たちでは何もしないような人間が「最も適応できている」ことになりはしないか。
- 理解できる・できない以前に、そもそも学習内容はどうだろう。僕たちが実社会に出て、学校の勉強内容そのもので役に立ったものが一体いくつあるだろう(大学に入るために役に立ったとか就職試験のために役に立ったなどではなく)。たとえば小学校の理科で電池のつなぎ方を習っておいたから助かった、とか。
- 話が分かりにくいと思うので、たとえばスポーツのクラブなどと比較しよう。サッカークラブでも野球クラブでもいい。きっと基礎練習での走りこみや、パスの練習、投げる練習、打つ練習などがあるだろう。これらは生徒でも「何のためにやるのか」が実に明確である。だから補習なんかしなくてもやる生徒はやるし、やらない生徒(サッカーや野球の上達をあきらめた生徒)はやらない。
- これに対して小学校や中学校の教育内容はどうだろう。「義務教育」などといいながら、生徒の視点から見てこんなのなんの役に立つの?と思うようなものが多くはないだろうか。漢字の読み書きにしても、自分の読みたい本やマンガに時々出てくるような漢字なら覚える気も出てくるだろうが、教科書に出てきても読みたいと思うだろうか。教科書なんてどうせつまらないし、読む気もないから、読めなくていい。
- 理科の電池の話にしたって、豆電球なんて理科の授業で初めて見たという児童・生徒もいるだろう。そんなものどうでもいいと思ったらそれで終わりだ。まして自分の親の電気の知識が散々だったりすると、「なんだ分からなくても問題なく生きていけるんだ」と思ってしまい(しかもそれは事実である)、苦労してまで勉強する気は起きないだろう。
- そしてそんなくだらない(ようにみえる)知識を詰め込むのが学校で、しかも役に立たないことを覚えたかどうかテストされる。理解度が低いとしかられたりする。興味がある人だけが覚えればいいというわけじゃない。ひどい話だ。こんな仕組みに適用した人間がはたして「まとも」になるとどうして期待できるだろう。・・・ひょっとしたら、こんな義務教育なら全くないほうがいいのかもしれない。
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- 僕の場合、いくつかの教科については勉強そのものが楽しかったので、それらについては学習することは苦ではなかった。だから役に立たなくてもかまわない。でも、それとは無関係に純粋に役に立ったことを役に立っていると思う順序で挙げてみよう(収入に結びついているかどうか、などが基準)。自主的に本を読んで学んだことはのぞく。
- 算数と数学(四則演算や方程式やべき乗などの代数的なことだけ、三角形の合同や相似は役に立ってない気がする)
こめんと欄