2014年のメモ #0001
2014.01.12 Sun
- 僕は「ひとりでもやるぜ!」な人の時代が来ていると思っている。
- 世間では人々が集まって、さてみんなで何をやろうかと話し合うことが多い気がする。今年の文化祭ではクラスで何をやろうか、とか。これからの日本はどうあるべきなのか、とか。みんなで誰を代表にするか選びましょう、投票しましょう、とか。・・・こんなのはもうダメだと僕は思う。時間の無駄だ。
- まず、やりたいことがある人は、他人なんかどうでもいいから自分でできることからさっさとはじめてしまえばいいと思う。適切な例かどうかは分からないけど、僕はOSASKをそうやってはじめているし、efg01だってOSECPUだって、そうしてきた。誰に反対されようがそんなのは関係ないし、いいわけも説明も説得もしない。必要ないからだ。・・・別の例としてはosaskologyがある。
- やりたいことがないけど、なにかでかいこと(=一人ではできないこと)をやりたいと思うのなら、やりたい人が一人で既に始めている何かを見つけて、そのプロジェクトにjoinすればいい。それだけだ。これならくだらない議論に時間を使う必要がない。
- 税金とかはこの観点では最低のシステムで、用途を決める前に金を集めて、それから使い方を国会とかで決める。賛同しないものは支払わなくてよい、とかにすればいいのに。その点、株式の仕組みはうまくできている。
- 僕がOS自作入門で示したことは何だ?・・・それはもはやOSだって一人で作れるということだ。それだけのツールも情報もあるのだ。だから人を集める必要なんてないんだ。その苦労は、OS開発のためにこそ使うべきなのだ。自分のアイデアを少しでもよく見せるために宣伝文句を考えて努力するのは馬鹿げている。少しでも作れば仲間は勝手に集まってくるのだ。正しさを言葉で立証する必要なんてない。できたものがもっとも説得力がある。
- アニメだって一人で作れる時代なのだ。かつてはそんな風に思った人はいなかった。 http://d.hatena.ne.jp/usukeimada/20121206/1354783675
- だからまずは一人でもとにかく僕はこれをやるんだという、その心意気が必要だ。「みんなと一緒じゃないと一人ではできない」「みんなで力を合わせるからこそできることがある」とか言っているような人を僕は相手にしない。今、一人で全てができるとは言わないが、しかし出来るようになる日は来る。その最初の一人になればいのだ。僕のOS自作入門は、そういう面が評価されているのだと思う。
- なぜまず一人でできることから始めないのだ?・・・自分から始めない人たちは、いいわけばかりする。一人でできることすらやらないで、みんなでやりたいとかいって、それはただ逃げているだけじゃないのか?ただ雑談がしたいだけなんじゃないのか?
- 日本の未来とか、世界の未来とか、そんなものを話し合ってどうするんだ。それで何か意見がまとまるのか。自分の望む方向に世界が変わるか変わらないかの二択じゃないのか?変えたいなら行動だ。joinするか、新規立ち上げか。・・・少なくとも議論じゃない。
- 僕は他人が何をしようとあまり気にしない。ゆとり世代とか、さとり世代とか、それがなんだというのだ。好きなようにさせておけばいい。僕は僕の好きなようにやるし、他人には干渉しない。協力者とは協力するし、非協力者には何もしない。
- 先の「今年の文化祭ではクラスで何をやろうか」の例だけど、僕が示したい対案としては、何をやるか一つに絞る必要はないし(クラスを分割すればいい)、自分たちのクラスは何もしないで、各自他のクラスの好きなものを選択してjoinしてもいいのでは?ということ。「何をやるか」の前にメンバーが決まっている仕組みは、時代遅れというか、効率が非常に悪いと思う。うまくまとまらなくて、10人いても3人分くらいの仕事しかできない可能性がある。気乗りしない人を説得する労力は無駄だ。そんなメンバーは切ってしまったほうがいい。
2014.01.29 Wed
- OSASKは最初はよかったのに、だんだんコミュニティの質が下がった。それがなぜ起きたかだけど、理由はいろいろあって、でもその一つに「分かりやすくなってしまった」ということがあるのではないかと思う。
- 「OS自作入門」のせいでOSASKコミュニティの参加障壁は低くなってしまった。それまでは、分かる人にしか分からないという面があったのに、それがだいぶ小さくなってしまった。
- そうすると、よくわからないくせにその気になってあれこれ口出しする人が来てしまう。もちろんそういう人は「OS自作入門」の前にも少しはいたけど、主流派ではなかったし、ていねいに対応してもどうということはなかった。それくらいに少なかった。
- ということで今後は同じ失敗をしないためにも、OSECPU-VMは分かりやすくはしない。十分な知識を持つ人が見れば正しく理解できる程度の情報は提供するけど、初心者でも分かるような説明の仕方は選ばない。もちろん、OSECPU-VMで入門書を書くことになったら、その場合はこの限りではないけれど。
2014.02.05 Wed
- 以前誰かに言われたこと。「これからはコンピュータが進歩して、計算ができるとか問題が解けるとか、そんなスキルは重要ではなくなる。むしろ、何の計算をさせるべきかとか、どんな問題に取り組むべきなのかをうまく選べる人が主役になる。」
- この意見は「なるほどそうかも」と思わせるのだけど、大きな前提を見落としていることに僕は気づいた。・・・それは「その進歩したコンピュータを満足に操作できるのなら」ということだ。
- 自動車が世に出て、足の速いことは優位性を失ったかもしれない。しかしそれでも運転免許が取れなければ、車は運転できない。コンピュータに免許は無いけど、しかし誰でもプログラミングができるわけではないし、うまく検索を使いこなして最適な情報に到達するスキルを多くの人が持っているわけじゃない。
- たぶん僕のこの意見に異議を唱える人もいるだろう。「現在はそうかもしれないけど、将来は違う。将来はもっと操作が簡単になって誰でもできるようになるのだ」と。・・・でもよく考えてみてほしい、はたして本当にそうだろうか。
- 誰がいったい何のために、誰にでもできるようにするのか。それは売れるのか?売れるのなら誰かが作るかもしれない。しかしそれを買うお金すら払う気がないのなら、あなたがそれを手に入れる望みはたぶんない。
- 運転免許は教習所に行けば、たぶんとれるだろう。しかし教習費用は安いだろうか?パソコンのスクールもある。それに通ってもワードとエクセルくらいしか使えるようにはならないだろうが(しかしそれでも何もできないよりは大進歩なのだけど)、しかしそれだって安いとはとてもいえない。
- つまりはこういうことなのだ。技術は進歩して、スキルの主役が変わるかもしれない。しかし大前提として、その技術の利用方法を習得しなければ、進歩の恩恵を得ることはできない。人間はどんどん「やることがなくなっていく」というわけではなくて、「その代わりに別のやることが追加される」のだ。話はそんなに単純ではなかった。
- 何もできない人が悠々と生きていける時代なんて来ないのではないかと思う。せめてお金は稼げないといけない。
こめんと欄